2008年5月15日 (木)

あこがれのカーメル その2

数週間前『神話の力』の中のチベット僧の唱えるオームシーンをアップしたところ、チェンマイ在住の日本人からお礼のメールをいただきました。「オームのバイブレーションを受け止めてくれる人がいたか!」と喜び、その後メールのヤリトリしたところ、1990年代にこの方のご家族と出会っていたことが判明。メール上のわずかのヒントから名前まで言い当ててしまった私の記憶力にビックリするとともに、「オーム」を仲介として、メール上とは言え再び繋がった回路に不思議な感動を覚えたワケです。

全地球を住まいとして現在はチェンマイ在住のこの方、これまでにアメリカ西海岸カーメルにも住んでいたこともあるそうで、ジョー・サンプルの名作『♪カーメル』をアップしたところ再びメールをいただきました。充実した人生を過ごされていることが想像できて羨ましくなるメールです。

ご本人の了解を得た上でそのメールを転載いたしましょう。

「カーメル」「ビッグ・サー」

あぁ、私にとっては憧れの地なのです。

Sikiri

   to airegin

「カーメル」の動画、拝見しました。

モントレー、パシフィック・グローブ、ペブル・ビーチ、カーメル、そしてビッグサーと、モントレー半島とその南の小さな町の数々とそれを取り巻く自然は、キレイな町が多いカリフォルニアの中でも特別だと思います。

結局カーメルにはたったの2年しか住まなかったのですが、最初の1年は海辺のCarmel by-the-seaというエリアで、ほんとうに風光明媚なところでした。後半の1年はカーメル・バレーに引っ越し、カーメルの谷(ワイナリー)を見下ろす山の斜面の断崖絶壁に暮らしました。

窓の外を雲が棚引き、ワシが風に乗って目の前を通り過ぎるという、これまた素敵なところでした。そしてなにより大好きだったのは、レッドウッドの森とクジラが回遊する青い海、たえず出ている霧がとても神秘的だったビッグサーです。

ビッグサーにあるエサレン研究所(Esalen Institute)で、1965年頃からキャンベル先生が毎年レクチャーをしており、今でもジョーゼフ・キャンベル関連のセミナーがあったりして、この前もエサレン研究所のロルフィングのコースへ通った友人がクラスの合間に『神話の力』のクラスに参加してきた、と言っていました。

カーメルに住んでいたときは、夫も学生で、わたしも仕事を掛け持ちしていて生活に余裕がなく、エサレン研究所へは遊びに行くだけで、何のワークショップにも参加できなかったのがほんとうに残念です。

それにこのジョー・サンプルの曲で思い出すのが、モントレー・ジャズ・フェスティバル。

ジャズ・フェスティバルを見に行った思い出というよりも、モントレー・ジャズフェスティバルで演奏するアーティストたちが、毎年モントレー郡のジャズな子供達のために開催してくれるサマーキャンプです。

なにしろブランフォード&ウィンストン・マルサリス兄弟なんかが講師で直に教えてくれるので、このために、ヤツラ必死に練習します(笑)

各校選ばれた子たちがキャンプへの参加権を取得、さらにその中から「ビッグバンド」が組まれて、最終的にはその年のジャズ・フェスティバルに出演します。息子たちが音楽少年なんですが、2人ともキャンプへの参加は果たしたものの、特に長男は惜しいところで最終選考でビッグバンドには残れませんでした。

どちらにしても素晴らしい体験だったと思います。

カーメルという町自体は、ジャズっぽい趣はなく、どちらかといえばクラシックの小曲が似合うところですが、ジャズフェスティバルと共に盛上がるあの空気もまたカーメルのスパイスのひとつなのでしょう。

あ、モントレーとカーメルは、別々の町なんですけどくっついてまして、車ならほんの数分で行き来の出来る距離です。

ゴールデンウイークはいかがでしたか?

今日は某国主席が来日しましたね(笑)雪山獅子旗と共にお出かけでしょうか。(^^)タイも国王の即位記念日やメーディーで、子供の学校は先週の木曜日から月曜日まで連休、今日やっと静かになりました。ビルマに壊滅的な被害をもたらしたサイクロンも、チェンマイを連日雨にしましたが、それも消滅して今日は久しぶりの快晴で、また暑くなりました。

カーメルやビッグサーの思い出を甦らせてくれる音楽ビデオをどうもありがとうございました。

さて、このメールはまた何かと繋がりましたでしょうか??(^^)

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ビッグサーには1960年代初めにジョーン・バエズが移り住み、ボブ・ディランと同棲生活を送っていて、両者は相互に影響し合いますが、そのディランは1965年ころにビッグサーを去ったというのは有名なハナシ。

そんなバエズがビッグサーで録音したLPレコードがあったはずだと探したら、、、。

あ〜、ありましたネ〜。

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ビッグサー住人のジョーン・バエズの音頭取りで始まったフォーク・フェスティバルで、60年代半ばの録音のはず。ジャケット写真を見ただけでもビッグサーの雰囲気が想像つくというものです。このレコードではジョーン・バエズを中心にクリス・クリストファーソン、タジ・マハール、それに変わり種「ブラッド・スエット・アンド・ティアーズ」の懐かしい音を聴くことができます。

このバエズのレコードを探してレコード棚をヒックリ返していたときに「カーメルといったらワシを忘れては困りまっせ!」という感じで出てきたのがこのレコード。

CONCERT BY THE SEA
ERROL GARNER

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1955.9.19
CARMEL,CALIFORNIA
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『♪ミスティ』の作曲者でもあるエロール・ガーナーは、サイドメンとして他のメンバーに合わせる器用さは持っていないようで、あくまでも自己のピアノトリオで真価を発揮するタチ。このレコードでも難しいことはな〜んにもなし。カーメルの開放的な雰囲気とエロール・ガーナーのポップス感覚が見事にかみ合って、アップテンポからスローバラードまでノリノリの大傑作。私は特に『♪枯れ葉』が好きなんですネ〜。

ビッグサーも、もはやジョーン・バエズのいた時代とは様変わりしているのでしょうが、2枚のライブ盤を聴いて、ますますビッグサーへの憧れ募るばかりです。

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2008年4月28日 (月)

長野に行ってきた2

イヤハヤ・・・長野を真っ赤に染めた紅衛兵諸君もウンカのごと飛び去りそれぞれの日常の生活に復帰。世界に不調和まき散らしたハタ迷惑“呪われし聖火”も日本を離れて、少しは静かになりましたね〜。

土曜日に大声張り上げていたのがストレス解消になったのか、日曜日は睡眠時間の短かったワリには目覚めスッキリ。ユックリと新聞を読んで前日の長野騒動記事を確認してからプールでのスイミング。体調気力ともに変化なく1000mヤッツケて、さらに「フリー・チベット!」念じながらの水中ウォーキング。心地良い疲労感を楽しむ。

そ後近くの川べりを散歩すれば、水が干上がった川で取り残された数匹の鯉がアップアップ。

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この姿を現在の中国政府首脳の姿と結びつけてニ・ヤ・リ。

今回の“聖火”リレーはヤツらが目論んだこととは全く逆の結果を招いたのは確実。今回の一連の段取りしたヤツは一族郎党ともに即強制収容所行きの憂き目というワケよ。

アッハッハッハハー!

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日曜日の朝のテレビはやはり前日の長野騒動がメーンで、どの番組も大きな扱い。ただし私が実際に長野で見た印象とはかなりの差がある。私がセッションに参加したのは10時40分ころからだから、これは第一次の高波がひいたあとで、夜行バスで動員された紅衛兵もさすがに疲れが出た時間帯だったんでしょう。これが私の印象とメディアの報じた騒動との差だったのかな。

しかし、よくもアレだけの紅衛兵を集めることができたものと感心します。

世界各地を真っ赤に染め、自分たちの価値観だけを押し付けるそのやり方の報いを味わうときが近いうちにやってきます。

マッ、せいぜいいまのうちに楽しみなされ。

何度でもいいます。世界中に恥をさらす結果になった今回の“聖火”リレーは大成功でした。

というワケで、長野で見た雪山獅子旗の勇士を何枚かご紹介いたしましょう。

コレは“聖火”リレーを待ってる間に通りかかったオートバイ。

「バイクで?どっから来たの?」と尋ねれば
「東京から、フリー・チベット!!!」
とバイク青年
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この旗の意味が分からない。
気になるとどうしようもなく気になってしまう私は彼らに訊きましたヨ。
「あの〜・・この旗は何の旗ですか?」
「これはネ〜ベトナムの旗ですヨ。」
「エッ?ベトナムの旗?これが?」
「そう、今のじゃない。ムカシのベトナム。ボクたちもチベット支持です!!!」
「あ〜、旧南ベトナムの旗だったんですネ」
なるほど南ベトナム出身者だったら反中国も理解できる。


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歩いている途中左翼顔の中年男性と目が合って、彼が話しかけてきた。

「あなたはどこかの団体に所属しているのですか?」と訊いてきたから、こんなことを彼に話した。

ボクはどこの団体にも属してない、まったくの個人の意志で長野に来ています

ボクがチベットのことを初めて心にとどめたのは、1959年か1960年ころだと思います。茶の間で新聞を読んでいた母親が「この人がチベットの“生神様だって、可哀想に・・・」。そう呟きました。その新聞を覗き込むと若い日のダライ・ラマがラサを逃れてインドに向っているときの写真が載っていたワケです。

母親はダライ・ラマについての知識あったとは思えないし、子どものボクだってダライ・ラマがどういう存在なのか知るはずもありません。それでもボクは母親とのそんな会話を鮮明に憶えていてダライ・ラマの名前も刻印されました。

ボクがダライ・ラマを訪ねて亡命政府のあるインドのダラムサラを訪れたのは1974年4月のことです。だからチベットとの関わりは随分古いことになります。その時はダライ・ラマが外国へ行ってたかナニかでダラムサラには居なかったり、ボク自身が肝臓をやられてダラムサラを離れたためにダライ・ラマに会うことは叶いませんでした。

チベットのラサへ行ったのは2005年のことです。たった1週間ほどの旅行でしたが、ラサの街は中国人入植者に浸食されてチベット人たちは隅へ追いやられていることはすぐに理解でき、中国政府のヤリクチに憤りを憶えて帰ってきました。

それ以来ボクの信条は

 チベット問題があるかぎり中国を信用するな!!!

というものです。

ボクは特定の宗教の信者だとかチベット仏教の信者でもなく、ダライ・ラマの著作に影響されその教えを実践してるということもありません。第一ダライ・ラマの本もまともに読んだこともないのです。ダライ・ラマという名前を知った、子どものときの母親との一夜がボクのチベットの原風景になり、ダライ・ラマ=母親の姿にイメージされるだけです。

そんな、ただのミーハーですが、中国がチベットにしたことと同じようなことはいずれ日本も起きると確信しています。武力で日本を制圧ということはないにしても、いずれ中国に隷属させられることは、これまでの日本政府の対中国の姿勢からみて明らかです。

だから、いまこの機会に中国に対する意思表示をしておかないと気が済まないということがあって、こうして長野に来ているワケです。

もちろんこんなに流暢ではなかったけれど、このような趣旨のことを歩きながら喋ったワケ。

その左翼顔がどういう意図で私に話しかけたのか知らないけれど、私のハナシを途中からメモをとりながら聞いていたから、何か特別な意図があったのかもしれません。もしかすると公安だったか?

左翼顔オトコと別れて“聖火”リレーのゴール地点の県民会館に近づき、雪山獅子旗の流れにしたがって歩いていくと、雪山獅子旗と五星紅旗がキレイに振り分けられていてのシュプレヒコール合戦。数は圧倒的に紅衛兵が多い。

2008年4月26日(土)午後、長野市若里公園雪山獅子旗のエリアで見かけたそれぞれの意思表示。

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前章でも書いたけれど
“聖火”リレーが
日本人排除の会場で
中国人五星紅旗の拍手で閉幕ということは
「中国人のための日本人によるイベント」
だったことで間違いありません。
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それでも
このイベントが大成功だったと喜びましょう。
なぜなら
中国崩壊の序章を見ることができたのだから。

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2008年4月27日 (日)

長野に行ってきた

  to eiregin

逮捕者5名、、、、ということですが、

まさかえあじんさん、パクられていませんよね?

TVでずっと見ていたのですが、中国国旗が圧倒的に多く、
中にちらほら、チベット国旗。

なんか、すごくでかいのがありましたが、パネルにしたのかな?

えあじんさんの勇姿、残念ながら未確認。
「緊張した空気のなか、小競り合い」などとネットには出ていますが、
いかがでしたか?

お疲れ様でした。

Tibet

from えあじん

行ってきました長野へ。

パクられたときの身元引き受け人用にあなたの電話番号はメモして、、、というの・・・はウソ。ハナっから特に何かコトを起こそうなどという気はサラサラなく、“抗議”というと大げさになるけれど「身の丈に合った意思表示をしておかなければならない!」という、ただそれだけ。

26日の朝に新宿を発ち長野駅に着いたのは10時30分ころ。長野駅善光寺側は雪山獅子旗と五星紅旗チラホラと閑散としたモノで拍子抜け。通りがかった同志に「フリー・チベット!」と声をかけ訊けば、このあたりが騒然としたのは朝6時頃のことで現在は駅の反対側に移っているんだとのこと。

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疲れた表情の五星紅旗群に混じって長野駅ビルを反対側に抜けると、オー!!!歩道橋の上は韓国サポーター!じゃなくって!五星紅旗の陣地。

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リレーはまだ終わっていないらしく、“聖火”をお迎えしようと先回りしている紅衛兵の孫諸君が陣取っています。

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歩道橋も地べたも五星紅旗で埋め尽くされ、さらにアッチコッチから何やら唱えながら移動してくるサマは壮観。彼らのコールの意味は分からないが、“毛語録”の一節なのかな。

この場所がリレーコースになってるのかどうか分からなかったけれど、適当な場所に立ち、雪山獅子旗振りながら「フリー・チベット!」を連呼すれば、紅衛兵は紅衛兵で“毛語録”唱えながら背後を移動していくワケですよ。

隣りの“聖火”見物の母子に訊けば、このあたりは70番目あたりのランナーが通過するはずだというから、とすれば、70/80で終点は近いことになります。

たしかに「フリー・チベット!雪山獅子旗」と「“毛語録”五星紅旗」が入り交じっているけれど、特に緊迫感もなく、2メートル置き程度に配置されたオマワリさんも、「オマワリさん大変だね〜何処から来たの?」などという質問に冗談まじりで応じれるほど余裕の表情。

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フリー・チベットと“五星紅旗”のフリーセッションをひとしきり楽しんでいると、さっきのオマワリさん、「時間的にはサ〜、ソロソロ来る時間だから、写真撮る人はカメラ準備した方がいいよ」などと情報まで流してくれるサービスぶり。

そうしたら
ホントに来やがったゼ
“呪われし聖火”が!!!
先導車に続いて黄色い炎が見えたので
ワシは慌ててカメラを取り出して
ムービーにセットしたワケです。
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ひとりYouTube
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まさかリレーを見れるとは思わなかったゼ!

ムカデ競争風隊列に囲まれた“呪われし聖火”と、その後の主催者関係車列を見送りながら、これまでの聖火リレーの映像となんか違うなぁと思っていて、気がついた。

これまでに何回か観た“聖火”リレー映像は妨害されたにしろスンナリ行われたにしろ、実に洗練された、歴史を感じさせる街並みの中を走り抜けたけれど、目の前の景色は、、、。工事中のデコボコ道に古びたような壊れかけた建物という、日本人だったらゴクゴク見慣れた景色だったことです。

人の流れに混じってムカデ競走の消えた方向へ歩いていくと、そこは県民会館裏側の若里公園で、ここがリレーの最終地点だったかと納得。

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雨模様の空の下、オマワリの誘導であちらの丘が五星紅旗、こちらの丘が雪山獅子旗と振り分けられたけれど、これは両グループの接触を避けたオマワリの作戦で、両グループとも警備のオマワリを挟んでのセッションということになります(人数的には五星紅旗が2000人、雪山獅子旗が500人というところかな)。

午後1時ころになると突如五星紅旗が解散を初めて、何が起こったかと思っていたら、あとで聞いたハナシではリレー式典が終わっての撤収だったそうだから、今回の“聖火リレー”は中国人への日本人によるイベントがここ長野で行われたということになります。

中国人の撤収が終えても雪山獅子旗は散会の気配もなく、雨が本格的に降る中、寒さしのぎにフリーチベット!を連呼し続けたけるうち、やがてこの集会の主催 者らしきチベット人による、支援に対するお礼の挨拶とか、その他関係者の挨拶などがあって、けっきょく散会したのは2時頃だったと思います。

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このように私が体験した長野“聖火”リレーは特に混乱もなく終わったけれど、実際にはアッチコッチでイザコザがあったということは、今朝のニュースで知ったワケです。

ニュースなどで一番に問題にされたのは、長野の町を埋め尽くした五星紅旗の是非になろうかと思います。たぶん中国政府は留学生による祖国を思う留学生の“自発的意思”ということで済ませるんでしょうが、大旗掲げたリーダーの統制の下に動いているところを見ると、あの紅衛兵の殆どは組織単位での動員がかかっています。

それに対した雪山獅子旗こそが自発的参加です。これは参加者の「青壮老」というバランスのとれた構成からも分かります。「いまアピールしておかなければ」というそれぞれの素朴な思いが長野へ駆り立てたものです。

今回の長野“聖火”リレーは結果として良かったんではないかな?と思います。というのも、中国政府はチベット問題を初めとした自国の抱える問題点を世界中に知らしめてしまい、日本人はこれまでの、何が何でも『日中友好』に『?』マークをつける皮肉な結末を迎えることになったのだから。

というワケで
最後に
北京オリンピックを記念して
こんな画像をプレゼントいたします。
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フリーチベット!!!
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2008年4月19日 (土)

善光寺さん聖火リレー式典を辞退

“聖火”の世界各地での歓迎のされかたをみて、たぶんそうなるんじゃないかな?と思っていた善光寺での出発式典は、善光寺側の辞退でケリがついた。


2008年4月18日(金)
NHKTV 夜9時のニュース
ひとりYouTube
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善光寺さんは良い決断をしました。
素晴らしいメッセージを発しました。
同じ仏教徒への迫害を
「内政問題だ」と強弁する中国の
露払いすることなんかありません。
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不調和の象徴
“呪われし聖火”は
長野どころか日本にも来ないで
そのまま天安門に直行してもらって構いません。
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Tibet

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2008年4月18日 (金)

聖火インド到着

聖火リレーも長野に近づきつつあります。

数日前のニュースでは、長野市役所主催で聖火リレーボランティア参加者に対する説明会が行われたそうで、その中で「危険を感じたら逃げろ!」という説明には、驚いたり呆れたり。

世界各地でのこれまでの経過を見れば分かるように、今回の聖火リレーはもはや『平和の祭典』のプロモーションを突き抜けて、国家のメンツを賭けたチキンレースに成り下がっています。それほど危険要素の含んだ催しに善意のボランティアとして一般市民が参加できるスペースなどあるんかい?

長野聖火リレーは冬季オリンピックの開催されたことを記念してのイベントらしいけれど、長野冬期オリンピックといえば、あなた!!!会計書類を公開もしないで処分して平気な顔だった前科を私は忘れていませんで。

善光寺さんのお膝元でそんないい加減なことをした結果、西武のダンナはコケて世間に恥を晒すことになったし、今回だって、中国の提灯持ちに堕して「聖火防衛隊」などと称する青服軍人の横暴を許したりしたら世界の笑い者になりまっせ。

いずれにしてもこの聖火リレー騒動は、中国のいかがわしさ、中国の抱えるチベット問題を世界に広め、ダライ・ラマの名前と写真が溢れたという点でも、大いに喜ぶべき期間だったと思うワケです。

ダライ・ラマの名前はこんなフリーペーパーにも載ってましたね〜。

R25
2008.04.17 号


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ダライ・ラマの豪放磊落笑顔と
主席閣下の腹にイチモツ笑顔では
アイコンのグレードとしては
最初から勝負アリ!!!
という感じです。

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その聖火もとうとうインドに入りましたネ〜。
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2008年4月17日(木)
NHKTV 夜9時のニュースより

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ひとりYouTube

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聖火リレーどころか
世界に不幸をまき散らす
呪われたリレー。
それでもテキさんは
大成功!歓迎された!
と国内宣伝くりかえすんでしょうね。
殆どの国民は自分たちの聖火が
世界でどのような扱いをされたか気がついているのに。

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Tibet

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2008年4月15日 (火)

雪山獅子旗貼るひと剥がすひと

土曜日曜あたりは各テレビ局は軒並み北京オリンピック聖火騒動の特集をやっていたから、聖火騒動の原因はどこにあるのかを気がついた人も多くなったでしょう。あまり一般的でなかったチベット問題が一挙に知れ渡った点で、今回の聖火リレーは大成功の金メダルクラスです。

私も親チベットの立場でこのサイトを発信しているけれど、これはオリンピックを止めろ!とか聖火リレーを妨害しろ!などと主張していることではなく、チベットの人々に対する虐殺を覆い隠したまま「平和の祭典」の象徴である聖火リレーを行うことに疑問を持っていることを表明しておこうということなのです。たぶん、これまでに各国でチベット国旗を振って聖火を迎えた(?)人々も(一部のプロ活動家を除いて)だいたいこんな単純な動機だったのではなかったでしょうか。

こんな普通の市民の普通の反応も中国側から見れば、経済発展著しい自国への妬みとしか見えないようで、中国国内での聖火リレー報道は西側諸国とはずいぶんかけ離れたもののようです。聖火が各地でいかに歓迎されたかの論調オンリーでも、たぶん大方の中国国民は事実を把握しているんではないかな。

各国で見せつけられた普通の市民の普通の反応をただのかすり傷程度で済まそうとしても、そのかすり傷が化膿して、気がついたときには手遅れだった!というときが必ず来ますよ。

さて、小田急下北沢駅で見かけた雪山獅子旗のポスターを『雪山獅子旗からブリあら煮』というタイトルで書きました。これは線路脇の遮音壁も兼ねた広告板に貼られた雪山獅子旗のポスターを発見して、「こんな下町にもチベット国旗が進出するようになった!」と記録しておきたかったもの。

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上の写真の道を新宿方面に歩くと左側の遮音壁にこのポスターは貼ってあって、ポスターの出来具合から判断すると、組織的な仕業というより自前のパソコンでプリントアウトしたものをゲリラ的に貼り付けたという個人の仕業だったことは明らか。

そして、今日、下北沢のこの場所を通りかかったら・・・・・・。

アレッ?無くなってる!!!

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雪山獅子旗やら抗議の手錠五輪、それにフリーチベットなど10数種あったポスターが見事に・・・キレイに消え去っています。この数日の雨で剥がれたものなのか?それとも街の美観を守る会(?)が処分したものなのか?

それにしても、サラ金だとかロックコンサートのポスターは残っているのにチベット関係だけが消えるという、ミョーなこともあるもんだ。誰かがチベット関係だけを狙い撃ちしたとしか思えません。

このポスターのことを書いた私のブログを見た剥がし屋が現れたか?

私のブログがそれほど影響力あるとは思えないけど、もしそうだとしたら、ワザワザ貼ってくれた人にワルいことしたなぁ。

そこでだ!!!

私としても、かつて下北沢駅に貼ってあった雪山獅子旗が消えたまま黙ってるのもシャクだから、写真をもとにスライドショーを作りましたのでどうぞご覧下され。

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ひとりYouTube

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貼った人もゲリラなら
剥がす人もゲリラ
このオレだってゲリラだ!

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Tibet

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2008年4月12日 (土)

呪われし聖火

本来なら見るものにしばしの幸福を与える筈だったオリンピック聖火リレーも、これまでのところでは各地で妨害を受けて、いまや核燃料廃棄物扱いになってしまったようです。

おおかたの日本人が“調査捕鯨船”妨害ニュースに接したときに感じた不愉快さの何倍もの、不愉快さを通り越した屈辱を中国国民は感じていることでしょう。

「人権!人権!と言うけれど、オマエたちの国の歴史は本当に人権を尊重してきたのか?」

その鬱憤をどこで晴らすかとなると、オリンピックの各競技での自国選手への身びいきな応援、反対に、対戦する欧米選手への過剰なブーイングと、つい数年前のサッカー日中戦で見た、イヤ、それ以上の光景を見せつけた結果、選手引き上げなどの国も続出して大変な騒動になることでしょう。

オリンピックで国威発揚を目論みた北京政府の思惑は見事に外れて、世界に大恥をかきそうな気配がします。

それにしても、これまでのロンドン→パリ→サンフランシスコでの聖火リレーの様子を見ると、その手際の良さにはホトホト感心します。島国に育った日本人とは自己主張の歴史が違いますね。

というワケで、本日のひとりYouTubeは、サンフランシスコでの聖火リレー騒動を伝える2008年4月10日(木)夜7時のNHKニュースの動画で、チベット問題を簡潔に解説していると思います。

ひとりYouTube

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屁の突っ張りは承知の上で
自分の意思を何らかの形で表現しなければならないだろう。
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チベット国旗『雪山獅子旗』を探したり
長野行きの時刻表を調べたりしているのです。

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Tibet
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2008年4月11日 (金)

雪山獅子旗入手

チベットの国旗なんてすぐに見つかるだろうと思ったら、心あたりのアジアン雑貨店でも、ネットでも在庫がありません。そこでダライ・ラマ法王日本事務所へ電話して問い合わせたところ「もしかすると・・・ここだったらあるかも知れません」と、教えてくれたのが東横線自由が丘のMani Maniというお店。電話してみると、大型の国旗は売り切れたけれど小型のモノだったら在庫があるとの返事。

ワタシャ行ってきましたヨッ!

そのMani Maniへ。

このお店は以前何回か行ったことがあるけれど、まさにチベットグッズ一辺倒のお店。

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衣類や珍しい仏像などを見ながら雪山獅子旗を探していると、おりから電話中の女性スタッフの声が聞こえてきます。どうやら雪山獅子旗の在庫を問い合わせるお客さんの電話を受けていて、先に在庫分を何枚か送り、後日大型の国旗が入荷したときには電話連絡するということでハナシがまとまった様子。

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女性スタッフに聞くと、やはり、世界各地での北京オリンピック聖火リレー騒動や、昨日のダライ・ラマさん来日時のインタビューなどの放送と連動して、雪山獅子旗についての問い合わせが多くなったと言います。

私は大型のモノが欲しかったけれど、とりあえず在庫分の小型で我慢しようと小型サイズをゲット

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210×135の小型サイズでは、かの国の主席閣下をお迎えするには失礼では?とお思いの方に、大型雪山獅子旗入手の情報を得ましたのでご案内いたしましょう。

ばなな猫 さんのブログ
右サイドに雪山獅子旗入手の情報があります。
即注文しないと長野に間に合いませんよ!!!
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まず
初っぱなは長野で
次は
5月の主席閣下来日を
この旗掲げて平和的に歓迎しようじゃありませんか。
オカミもメディアも信用できない状況の中で
私たちの気持ちを表現できるのは
これぐらいしかありません。
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Tibet

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2008年3月23日 (日)

スタンド!アリーナ!ウィー!!!2

今朝プールからの帰りに見た桜並木を数時間後の夕方再び通りかかったときは、朝よりもかなり開花していました。もう数日で一挙に開花しそして一挙に散ってしまうんですね。

ひとシーズンお世話になった湯たんぽも押し入れに仕舞い込み、ストーブもと思ったけれど、朝はちょっと寒さを感じるから、これはもうしばらく置いときましょう。

さて、朝から心待ちにしていた「桑田佳祐石垣島アコースティックライブ」ラジオで聴きましたヨッ。「よく来てくれた」という石垣の人々の温かな雰囲気が伝わってきたし、桑田佳祐も気分良さそうで、楽しかったですね〜。

MCで「サザンオールスターズを石垣に呼ぶ会」の署名運動に感謝の言葉などもありましたが、私も清き一票入れてるんですヨッ!とひとこと言っておきましょう。

それでは、その番組から小林克也さんのオープニング部分をちょっと聴いてもらいましょうか。

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生放送中はヤンチャしてないけれど
1時間の生放送が終わったころから
俄然発情してしまって
放送禁止用語連発
無差別カチャーシセッションになってしまうんでしょう。

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2008年3月16日 (日)

チベットはチベットのものだ

リヤード・ギアの「インド女優キス強要」事件を書いた過去ログがあります。

1973年のボビーとラジャ

そんなことなどとっくに忘れていたらこんなスポーツ紙の記事を目にした。

2008.03.15(木)日刊スポーツ

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リチャード・ギアのオフザケが過ぎてインド保守派の怒りを買い逮捕状まで出たこの事件も、ギアさんが謝罪声明出したりしてなんとか手打ちが済んだらしい。

「(裁判所に)出廷の必要はなく、自由に出入りできる」

こんな裁定を受けたギアさんは近くインド入りしてチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世に会うために渡印の予定だと15日付日刊スポーツは伝えています。

1年前のあの「キス強要事件」がまだ燻っていたのか?と大笑いしたいところだけれど、この数日のチベット情勢は気になります。

侵略侵略で分捕った領土を維持するためには軍隊で押さえつけなければならないというのは当然のハナシ。国際社会の非難をどれほど浴びようともメンツをかけて徹底的に迫害しますね。“大男総身に知恵が回りかね”といわれるくらいだから、あまりにも拡大しすぎた国土を収めるには中国さんにとってムリがあります。

ヤバい国ですヨッ!!!

日本も、そんな中国さんの顔色ばかり伺っていないで独自性を打ち出して欲しいものです。

2008年3月16日 テレビ朝日 サンデースクランブルより

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2008年3月11日 (火)

フリーチベット

ビョークさんよくぞ言ってくれた。

2008.03.11(火) 毎日新聞

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私も叫んじゃおう
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チベット問題があるかぎり
中国を信用するな!!!

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2008年3月 8日 (土)

カンボジア/ベトナムスライドショー

きょうは暖かい陽気でした。

花粉で目をショボショボいわせて、おまけに鼻まできてしまって。

突然クシャミの大爆音轟かせて、買い物袋ぶら下げたオバさんをビックリさせてしまいました。

いつまでベトナムネタで引っぱるんだと言われそうですが、ヒマに任せてスライドショーを作りましたのでご覧下さい。

ひとりYouTube

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2008年3月 7日 (金)

モロッコという迷宮へ

このところ一日一日の過ぎ去るのがヤケに早く思われる。この調子だとすぐに100歳になってしまうなぁ。時計の進み具合が早すぎると感じるのもやはりトシのせいなんだろうか。

本格的花粉の季節になって、目の回りショボショボさせながら地下鉄の車内を見渡せば、ミョーにタビゴコロを駆り立てる雑誌の中吊り広告。

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CREA TRAVELLER
(クレア・トラベラー)
april 2008
文藝春秋
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パリからたった3時間のフライトでたどりつく別世界
モロッコという迷宮へ

モロッコかぁ。

好きなんだなぁモロッコが。

砂漠の乾燥地帯には

湿っぽい情念なんて入り込む余地もない

そんな感じがするのです。

また行きたい!
そんなモロッコのマラケシュの夕方の様子を
ちょっと聞いてみようか。

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2008年3月 5日 (水)

てぶれ.comのご案内

腕時計の日焼けあとも消え、それにつれて旅の思い出も薄れたような気もする老バックパッカーに届いたこんな雑誌。

これは会員になっているクレジット会社の機関誌で、今号はついこのあいだ行ってきたばかりのカンボジア・シェムリアップの特集。

贅をこらしたホテル、豪華レストラン、ゴルフ場などから、シェムリアップの別の面を見せられ、“生涯バックパッカー”にはこれらの施設は縁がないなぁと思いつつ、アンコールワットや四面仏の写真にはついつい見とれて、旅の再確認をすることになりました。

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GRAN
March 2008
特集 シェムリアップ、遺跡の街へ。
驚きの遺跡、
美しい伝統、
やすらぐ空間。



そこで
というワケでもないのですが
私も
カンボジア/ベトナムの写真をアップしました。
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コチラです。

てぶれ.com

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2008年2月29日 (金)

忘れないよ!ヴェトナム〜小鳥の歌

バックパックの旅から帰ってきてもう一ヵ月以上たつのに、腕時計の日焼けあとはまだ残っている。現地ではそれほどジリジリする暑さは感じなかったけれど、やはり日差しは強かったんだろうな〜。

こんなベトナム旅行紀があったことを思い出した。

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忘れないよ!ヴェトナム
田口ランディ

幻冬舎文庫

ランディさんがまだOLの馬場けい子だった時代、当時の同僚女性がお茶の水聖橋の上でつぶやいた言葉、
「あぁ、メコン川の夕陽が見たい」
なぜかこの言葉を長いあいだ心にとめていたランディさんが、実際にメコン川の夕陽を見にベトナムを訪れた旅行記がこれ。

確かランディさんの処女作で、発刊当時はそれほど話題にもならなかったけれど、“インターネットの女王”としてランディブームが起きてから再び日の目を見て本屋に並ぶようになったと記憶しています。

メールマガジンから活字世界に進出すると、「盗作騒ぎ」でポイント下げたけれど、この処女作を改めて読んでみると、ベトナム亜熱帯に住む人々の“しぶとさ”“したたかさ”“エネルギー”(それも並外れた)を捉えた異色の旅行記になっていて、改めてランディさんの実力を思い知らされた作品です。

ランディさんがこのベトナム旅行に持っていき、慣れない環境で気持ちがメゲたとき、何気なく開いたページに書かれたフレーズによって、励まされ新しい気づきが得られたとされるのが『小鳥の歌/アントニー・デ・メロ』という本。

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小鳥の歌
東洋の愛と知恵
アントニー・デ・メロ著
谷口正子 訳

女子パウロ会
1985.01.25

自分で買った記憶も誰かに借りた記憶もないこの『小鳥の歌』を、なぜ自分が持っていたのか不明のままベトナム行きの カバンに入れたというのがミソで、
 旅するあなたにとってこの本が必要だからあなたの手元にあった
という、「私たちに起きることに偶然はない」とする“精神世界”永遠の原則へ結びつけようというランディさんの意図も感じられます。

そう思えるほど『忘れないよヴェトナム』には『小鳥の歌』のメッセージが効果的に引用されています。

数年前のこと、『忘れないよヴェトナム』を読んでるとき、何気なく古本屋に入ると「オレが来るのを待ち構えていたんじゃないか」と思えるほど絶妙のタイミングでこの『小鳥の歌』の背表紙が目に飛び込んできたことがありました。

「私たちに起きることに偶然はない」というのは私にとっても強く共感するフレーズだから、ランディさんの本を読んでる最中にこんな形で出会ったのも何かの巡り合わせと『小鳥の歌』を買ってはみたものの、読みもしないで段ボール箱へ入れたままにしておいたワケです。

それから数年経って、今回『忘れないよヴェトナム』を再読していて『小鳥の歌』のことを思い出し、段ボール箱から探し出してバックに入れて出勤。会社近くのファミレスで読み始めたものの数ページであきらめてしまい、けっきょく『小鳥の歌』は元の段ボールへと戻ってしまったのです。

今の私には“精神世界”関係のミョーに思わせぶりな本を1冊読み続ける気力は失せてしまったみたい。

かつては『バシャール』を初めとするチャネリング本を筆頭に“精神世界”関係の本を読み漁り、見えない世界へ思いを馳せた時期もあったけれど、最近は現実主義者になってしまったようで、今の目の前に見えるものしか関心を持てない「正しいヤジオ道」へと軌道修正中のようです。

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2008年2月24日 (日)

世田谷でこんなものを食ってきた

渋谷から246を厚木方面を目指し、池尻三宿から左に昭和女子大を見てしばらく行き、カラオケビルを挟んだ三叉路なのか四叉路になるのかの首都高下をそのまま左に走れば厚木方面、右に別れるのが世田谷通り。

この三軒茶屋交差点を通るたびに気になる看板があって

ベトナム汁そばフォー
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の提灯文字。
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やはり
これまでのカンボジア/ベトナムのナガレからして
リサーチしておかなけりゃならんだろうと、、、、。
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あじあやたい
屋台
FO


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並んでる人たちは隣りのマクドナルドの行列。
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店内は9席ほど
看板に偽りなしで屋台に毛が生えたていどの規模のお店。
狭いキッチンでは日本人男性がお腹をぶっつけながら調理作業中。
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鶏肉野菜フォー
525円也
このフォーはビーフン。

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南北に細長いベトナムではその地方で生産される穀物も異なり
肥沃なメコンデルタの圧倒的恩恵を受けるベトナム南部では
米を原料にした麺(ビーフン)が多いみたい。
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オヤジの愛想は悪いけれど味はイケる。
あっさりした味付けで2杯はOK。
僅かに紛れ込んでいる香草の舌触りがベトナムを思い出させます。
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世田谷通りついでにもう一本。

三軒茶屋から世田谷通りを町田方面に向い環七を越えて右に世田谷区役所入り口、さらに進みボロ市通りの案内が見えるようになると三菱UFJ銀行を挟んでの二叉路。この二叉路手前にも押さえておきたい店があります。

その名もズバリ
SAIGON

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バラック風建物と看板
それに昔ながらの木立がウマく合致して
エスニックな雰囲気が漂う一角が旅ゴコロをソソリます。
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ベトナム風ビーフン
720円也
野菜タップリビーフンに揚げ小エビ春巻きが乗っていたりの豪華メニュー。

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店内はレゲエをBGMに店員もドレッドヘアーがいたりして
ベトナム料理店というよりはいわゆる無国籍食堂風。
チラチラ見えるキッチン内ではベトナム印度系が働いている様子。
夜になると酒場になるらしく焼酎のビンの列。
世田谷線の電車が通るたびに揺れる店内も思わぬ演出効果を上げています。
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こんなふうに
これまでインドカレー屋ばかり目立った世田谷通りにも
インドシナの風をどん欲に飲み込んで
無国籍状態になってきてます。
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そんな世田谷通りのブックオフで見つけたのがこの本。

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ベトナムの何カ所か歩いてみても
かつてこの地で戦争があったことを伺い知ることはできなかったし
ベトナム戦争題材にしたアメリカ映画を振り返っても
あんな悲惨な戦争が本当にこの地であったのだろうか?
と思えるほど見事に上書きされています。
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もはや記憶も薄れかけていくベトナム戦争だが
古典的名著といわれるこの本を読んで
30数年前の戦争を振り返ってみようと思うのです。

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2008年2月23日 (土)

ベトナムでこんなものを食っていた

2007年年末から2008年初めにかけておこなったカンボジア/ベトナム旅行記もそろそろ着陸態勢に入りました。今回は例によってベトナムで食べていたものを紹介いたしましょう。

朝食つき安ホテルの
バケットにオムレツにお茶という
基本的メニュー。

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これは美味しかった。
ホーチミン市のドンコイ通りあたりだと思うけれど
創作ベトナム料理という感じのオシャレな店。
具沢山ご飯をバナナのハッパで蒸した(?)日本風おこわ。

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ベトナムといえば当然春巻き。

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メコンツアーの昼食。
何の肉かわからない噛み切るのに一苦労。

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テーブル脇に貼り付いて
ひたすらおコボレを待つワンちゃん。
上の固い肉はもしかすると犬の肉だったりして。

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ホーチミンのファーストフード風のお店。
かつてクリントン大統領も立ち寄ったことがあるそうで
店内にはその写真も飾ってあった。

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ホーチミンから国道一号線をハノイに向っている途中の
ムイネーというリゾート地のホテルで食べたチキン焼そば。

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フエで食べた白身サカナをバナナの葉で包み蒸したもの。
隣席の白人旅行者が食べていたので
「ソレ・・ウマイか?」と訊いたら
「ビューティフル!」との答えだったので
「コレをくれ」と注文。
「ビューティフル!!!」

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フエのそば。
ベトナムのそばは何を食べても美味しい。

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フエのカフェで一休み。
ネスカフェとアップルパイで1ドル。
ちなみにベトナムでは
紅茶を「ティー」といわずに「リプトン」という。

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ハノイ裏町の大衆食堂の様子。
大皿に並べてある料理を指差して注文。

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バックパッカーらしいメニュー。
これだけ食べてもお金は2ドルとかそんなモノです。

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ハノイのホアンキエム湖畔
オシャレなフレンチ風レストランの焼き肉丼。

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ハノイ裏通りで食べるベトナムそば。
隣りのオヤジさんが食べているものを指差してのボディランゲージ注文。
付け合わせのモヤシを入れスダチを絞って食べる。

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裏通りを歩けば小路にはこんな屋台が開業していて
日本の風呂場にあるような小さなイスに座って
思い思いのそばを食べる。

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たぶん
B52が上空を飛び交っていたムカシの時代も
空襲警報が鳴るとドンブリ持ったまま地下壕に潜ったんじゃないかな。
そして
今だって
支配階級層の権力争いなどにも関心なく
ただひたすらそばをツルツルいわせて
ノラリクラリと生を全うしていくんじゃないかな。

というワケで、

「にっぽんめんくい党」としては、ベトナムそばに庶民のしたたかさをみているうちに、年末から年始にかけての“インドシナひとり旅”もエンディング。

ホーチミンからハノイまでバスで縦断したあと、こんどはハノイからホーチミンまで飛行機で戻る(約2時間=約100ドル)という、チョッと非効率的ルートでホーチミン市ノイバイ国際空港に到着。

大韓航空カウンターに行けば、ソウルの大雪のせいでソウル発の到着便が遅れているため、午前0時発ソウル行き大幅に遅れるとの案内。ということは、当然予約してあるソウル→成田便にも間に合わなくなることは確実。「それはどうなるアルカ?!」とKAL係員に質問しても「それはソウルのカウンターで確認してほしい」との返事が返ってくるだけ。

心配しても仕方がないと免税店など覗いているうちに日本食レストランの看板を発見。

店前ウインドウには“にぎり寿司”や“てんぷら”の見本に混じって“サッポロみそラーメン”もある。連日ベトナムそばを食べてきて、これから日本に向う飛行機に乗ろうというこの期に及んでもなお、ベトナムで食べる“サッポロみそラーメン”という図柄にひかれた仕事熱心な「にっぽんめんくい党」。

ホーチミン市ノイバイ国際空港で深夜に食べた
サッポロみそラーメン7ドルなり。

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結局午前0時発予定のKAL機がノイバイ空港を離陸したのは午前3時頃。
約5時間のフライトでソウル(仁川)空港到着。
当然予約してあった成田行きの便は出た後だったので直近の便に変更。
ソウル空港でも「にっぽんめんくい党」と思ったけれど
ベトナムの空港で深夜に食べた「サッポロみそラーメン」のせいか
旅の疲れが出たせいか胃がもたれるのでパス。
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約2時間のあっけないフライトで成田到着。
便を変更したことで荷物がうまく着くか心配したけれどトラブルなく
見慣れたバックパックがベルトコンベアーを流れてきて
老いらくのバックパッカー
17日間インドシナひとり旅を
無理矢理着陸させたのでした。

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旅行案内なのか
グルメ案内なのか
書いてる本人もよく分からない
カンボジア/ベトナムシリーズ
おつきあいいただいた方には感謝いたします。

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2008年2月22日 (金)

ホー・チ・ミンのバラード

ちょっとベトナムに行ってきたらこんな記事にも気づくようになった。

2008.02.20 毎日新聞

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なるほど、杉良太郎さん「約20年前からベトナムで孤児院支援などに取り組んでおり」という関係があったワケだ。それにしても高村さん、スギさまの貫禄に押されてどっちが外務大臣だかわからないようですね。マッ!どうでもイイけんどもヨ〜。

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ベトナム戦争が集結して30数年。

北ベトナムベトナム初代大統領ホー・チ・ミンは、ベトナム戦争終結を見届けてから亡くなったと思っていたら、戦争終結以前に亡くなっていたことに初めて気がついた。ホー・チ・ミン(1890−1969)死後に達成した北ベトナムによる南ベトナム制圧は、北による南への「侵攻?」それとも「解放?」、「乗っ取り?」それとも「吸収合併?」。そのあたりになると私には勉強不足で説明できないところです。

しかし、戦争終結後に多数発生したベトナム難民(ボートピープル)の日本漂着の新聞記事を読むたびに、共産党政府による旧南ベトナム住民への厳しい弾圧が想像されてイヤな気分になったことは記憶しています。そして、「南ベトナムを解放せよ!」「アメリカは南ベトナムから手を引け!」などと発言していたヒトたちが、「ベトナム難民問題」や「越中戦争問題」になると、沈黙してしまったことを不思議に思っていたワケです。

オマエらのあのアジ演説はどこへ行った!
今度はベトナム共産党政権に対してモノ言わんか!

あれから随分月日がたって、今更ムカシのことをほじくるのもナンだけど、過去を忘れたかのように、今では“進歩的文化人”ヅラして耳障り良い言辞を弄してるヤツらを見かけます。ヤツらにとって一時期のサークル活動的感覚だったのか?そんな世渡り上手に長けたヤツらには首から『キムチ納豆』突っ込んでやりましょう。今からでも遅くないぜッ。


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ひとしきり悪態ついたあとはこんなレコードを紹介しましょう。
このレコード
「1969年9月6日大阪フェスティバルホールにて実況録音(大阪労音例会)」
とジャケットに表示してあります。
こんな歌で本当に盛り上がったの?と
不思議なほどツマラナイ歌ですが
時代考証の意味もこめてアップします。
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ベトナムの国父として神格化されてしまったホー・チ・ミンは
不屈の精神力をもった闘志としての反面
地位とか権力にこだわることのない清廉潔白な人格だったらしい。
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そんなホー・チ・ミンが望んだとは思えないけれど
旧サイゴンは中黒外したホーチミン市となり
ホーおじさん肖像をプリントしたTシャツが土産物として売られ
オートバイの客引きがひっきりなしに声をかける町に変わりました。
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共産党一党独裁による政権運営も
信用できないけれど
少なくとも
民衆が銃声の音に怯えることなく暮らせるようになっただけでも
“良し”としなければならないかな。
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統一会堂(旧南ベトナム大統領官邸)
ホーチミン市
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2008年2月20日 (水)

ハロン湾クルージング

私が初めて会ったベトナム人は1974年のカサブランカだった。

そのベトナム人は、うす小汚いバックパッカーの私に声をかけ、ベトナム料理店で腹一杯メシを喰わせてくれたあと、ヤバそうな建物に案内してホットシャワーを浴びさせてくれたのだ。だいたい旅先で声をかけてくるヤツには要注意と相場は決まっているけれど、その時はホットシャワーの誘惑に負けて「ドロボーでもモーホでもスキにしろ!」と捨て鉢な気分。

彼は実際に要注意でもなんでもなく、スポーツジムでフランス人相手のマッサージ師として働いていて、街で見かけた同世代のアジア人に対しての親近感から私に親切にしてくれたのだった。その親切に甘えてカサブランカ滞在中はいつも彼のいるジムに顔を出してはご馳走になったりシャワーを浴びたりしていた。

旅をしていると過剰な防衛が身を護ることもあるし、また、他人の好意を裏切ることもある。 一瞬でも彼に対して疑いをもったことを恥じたのはず〜っとあとのことになる。

ベトナム人がどうして北アフリカのカサブランカくんだりにいるのか?最初は分からなかったけれど、ベトナムもモロッコも旧宗主国はフランスだったことで、フランス語圏での働き口あったのだろう。

30数年前にベトナム人から世話になったという体験で、その国にシンパシーを持ってしまうということもあるのです。

かってのイギリス植民地やフランス植民地のその後をみると、イギリスよりもフランスの方が統治が上手だったような気がする。イギリスは搾取するだけ搾取してズラカリあとは知らんぷり。フランスの場合は独立後も旧宗主国として影響力を保持できたということは、植民地経営ではフランスが長じてたようです。フランスは搾取するだけでなく、フランス文化というような精神的なものをうえつける術を心得ていたのかもしれません。
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さて、

カンボジアのシェムリアップから始まったこの旅も、どうにかこうにかハノイにたどりついて、ゴールも間近です。。

ハノイまで来たからには、観光客らしくちょっと遠出してハロン湾も押さえてしまおうか。

ハロン湾のホテルに1泊してノンビリしたかったけれど、時間がないのでハノイからの日帰りツアーに参加(昼食付き29ドル)。朝8時ころにベンツのミニバンでハノイ出発。道路両脇は工業団地らしく整備されて、いつでも工場誘致ができる態勢が整っているようだ。

ハロン湾の船着き場に着いたのが11時ころ。船着き場は乗船を待つたくさんの欧米人観光客であふれている。

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湾内もまたボートで埋め尽くされて壮観。

そんな中、船員に抱きかかえられて意識不明状態で事務所に運ばれた白人のお婆さんがいたりして。慣れない環境で無理して日程を消化しているんだろうな。

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ハロン湾は浸食によってできた1000とも3000ともいわれる奇岩の屹立する「海の桂林」とも称される景勝の地(だそうだ)。そんな岩々の間をボートは進みます。

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これは私の愛用のクロッグス。

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湾内だからもちろん波はなく、こんな景色を両脇に見ながらの快適なクルージング。

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この日はちょっとモヤのかかっていたのが幻想的なムードを醸し出します。

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カヌーを楽しむ白人カップルもいる。この薄ら寒い中タンクトップでよ〜やるワ!。どんな環境でも自分たちの楽しみをどん欲に追求しようというこの姿勢には感心します。

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ボートは筏にもやうとそこが水上レストランになり、こんな生け簀の中の魚介類をお客の好みによって調理してくれる仕組み。ただしこのツアーのお客は締まり屋ばかりであまり商売にはならなかったようす。

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ボートには果物売りの手漕ぎ船も横付けして客を待つ。

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食事が済んだあとボートは次の島へ。ナントカ島には巨大な鍾乳洞があり、奇岩とともにこれも名所らしい。

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「海の桂林」といわれても、「桂林」そのものも知らなデ〜」というていどで流して、鍾乳洞で見かけた横山ノックさんのほうに興味をもつというのが私の癖なのです。

これでハロン湾の観光はオ・ワ・リ。

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ベトナム旅行から帰ってきて、後追いになるけれどこんなビデオを観た。

インドシナ

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フランス植民地だった時代のベトナムが舞台になっていて、その当時のベトナム支配者であるフランス人やベトナム人の関係が理解できる傑 作映画です。この映画の中で、軍組織に背き左遷された将校の赴任したのがハロン湾。再会した恋人と海面に突き出た岩々の間を漂流するシーンは印象的でした。

順風満帆に思えた植民地経営が、激しい抗仏戦争、そして独立を承認という経過がこの映画の背景にあって、アメリカさんが首を突っ込む以前から、ベトナム人はいわば“戦争慣れ”していたことがよ〜く分かります。

けっきょくハロン湾の二人は逃避行の末、男は殺害され女は抗仏運動に身を投じ、二人の間にできた男の子はカトリーヌ・ドヌーブに引き取られるという結末。実際のハロン湾を見たときよりも、映画の中のハロン湾に何倍も感動したワケです。

それにしても
フランス映画には
ハッピーエンド
というヤツがないなぁ。

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2008年2月18日 (月)

ハノイ到着

前回紹介した「立松和平の地球探訪問/フエ/毎日新聞」の下には日本と最も安定した友好関係というタイトルでこんな記事があります。

日本とベトナムとはアジアの中でも最も安定した友好関係を保っている。ベトナムにとって、日本は最大の援助国だ。日本の政府開発援助(ODA)は10年で4割ほど減額されている中、ベトナムの援助額は900億円前後が維持されている(ベトナム協会)。この重点配分に対し、ベトナム政府は感謝の表明をくり返し行っている。(2008.02.14 毎日新聞)

その日本だってただの好意だけで資金援助してるわけでもなく、それ相応の見返りを期待しての援助。その見返りがベトナム全土に溢れている日本製オートバイということになるのでしょう。私が知人に「今度ベトナムへ行くんだ」と言うと、さる有名メーカー勤務の彼は、これまで、中国一辺倒だった部品調達の拠点をベトナムに移転しつつあると話してくれたっけ。やはり中国の政治に対する潜在的な不安をぬぐい去れず、「もし」という際の保険的役割がベトナム投資の動きになっているらしい。

ベトナムは韓国とも良好な関係を結んでいるらしく、ベトナムでのオートバイが日本メーカーの独壇場なら、大型車ということになると、なぜか韓国のヒュンデ(現代)になるようです。そして、韓国人旅行者も多く、ベトナム人、在外ベトナム人、日本人、中国人、韓国人と、同じ顔がそれぞれ別の言葉で入り交じっているワケです。

現在のベトナムと韓国の友好関係はおめでたい限りだけど、かつてのベトナム戦争時代、のちに韓国軍人出身大統領となる全斗煥・盧泰愚率いる韓国軍がベトナムで何をしたかということを私は知っていまっせ。

98年、金大中大統領はハノイを訪れ、ベトナム戦争に戦争についてこう述べた。
「過去の一時期、不幸な時期があったことを遺憾に思う」
この言葉に対し、ベトナムのファン・バン・カイ首相は「過去に区切りをつけ、未来をみつめよう」と述べただけだった。共産党独裁のもと、ドイモイと呼ばれる改革開放で経済発展を進めるベトナムにとって、韓国は重要なパートナーだ。そうした配慮もうかがわれる。
韓国軍は虐殺について、きちんとした真相調査をしていない。「包括的な過去の清算」を掲げてきた盧武鉉政権は、軍事政権による人権侵害の調査などを進めてきたが、なおこの問題に手をつけるまでには至っていない。
 
(2008.01.29 朝日新聞/歴史は生きている/韓国 軍も企業もベトナム参戦より)

「過去の一時期、不幸な時期があったことを遺憾に思う」

金大中大統領が述べたとされるこの言葉、これまで何度となく聞いたことがあるけれど、これってパクリヤンケ。

「自分たちがしたこと」はこの言葉で済まそうとして、「自分たちがされた(とされる)こと」に対しては、この言葉を何回くり返されても、「反省がたりない!」、やれ「歴史認識がたりない」などとノタマウのがかの国のヤリクチデッセ!とツッコミいれておいて、ホーを食べにベトナムへ戻ろうか。

ベトナムで2階だてバスに初めて乗った。2階だてバスといってもロンドン市内を走る赤いヤツではなく、車内が2段ベットになっているスリーピングバス、つまり寝台バスのことだ。

フエ→ハノイの移動に乗ったのがこの寝台バス。ちょうど身体が横になれるくらいの長さのベットが3列5行2段のスグレモノ。西洋人には長さが足りないようだが、アジア人の背丈にはそれほど苦にならない。

じつは、このバスが韓国ブランドの現代だったのだ。

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日本ではこんな寝台バスの走行が認可されてるのか知らないけれど、背もたれに寄りかかって窓外の景色を見るも良し、横になって眠るも良しで、フエ→ハノイ12時間の移動も苦にならない。

途中のトイレ休憩にも気がつかないまま眠り続けて、眼が覚めたときにはベトナムの首都ハノイに着いていた。

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シン・カフェ関係者の青年の紹介してくれた、旧市街にある1泊12ドル(朝飯付き)のホテルにバックパックをほどく。

ホテル周辺の路上にはこのように露天がたっていて、かつてB52戦闘機が飛来した時代も、上層部が権力争いしていた時代も、庶民の生活はこのように変わらない風景だろうと思うと嬉しくなってしまう。

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雑然とした旧市街とくらべると、ちょっと落ち着いた雰囲気のあるハノイ大教会周辺。旧市街が安ホテルのあるバックパッカーの溜まり場なら、洒落たレストランや土産物屋が並ぶこの大教会周辺もは別の意味でのバックパッカーの溜まり場。旅行者の求めるものは何でも手に入りそうです。

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バイクの騒音の中歩き疲れた身体に、ハノイのシンボル・ホアンキエム湖を通してくる風が心地よい。

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風の涼しさを感じて、さすが首都ハノイはベトナム北部に位置していることを実感する。

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湖畔のカフェで
カプチーノを飲みながら
この旅も
そろそろ
終わりだな
.
そんなことを思う
ハノイの午後でした。

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2008年2月17日 (日)

ベトナムのフィーゴ

「ベトナムって若い女の子に人気なのよ」

ホーチミンの「シティ・ツアー1日コース」で出会った日本人女性がそんなことを言っていた。彼女の言によれば、小物、それにマッサージとかグルメが日本人女性の注目を集めているのだとか。「コモノってどういうの?」と訊けば、バックだとかインテリア雑貨類のことだとか。確かにホーチミンやハノイを歩いているとZAKKAと書いた看板を見かけます。なるほど、帰国時にはお土産いっぱい抱えた日本人女性がイメージできます。

その彼女と話すキッカケは、二人ともクロッグスの同色サンダルを履いていることに気づいてニヤリとしたこと。このサンダルは蒸れないし汚れも簡単に水で洗い流せるし、なによりもアンコールワットの遺跡群でも平気だった歩きやすさが素晴らしい。これからのバックパッカーの必需品になりそうな予感がします。

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このクロッグス仲間のお嬢さん、ツアーバスを降りると「アオザイ姿