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2012年3月31日 (土)

西新宿安田生命ビル前のオーム

『シリバラジ』で検索してもインドレストランの『シリバラジ』関係だけで、旅行記的な記事は探すことができない。ということはこのヴェンカテーシュワラ寺院に関心を持った日本人はいなかったのかも知れない。

今回のシリバラジご対面は得難い経験をしたと思っているのだが、結局こうしたハードな経験こそがいつまでもココロに残るのではないだろうか。

ティルマラ山頂のDVD屋の青年。

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この土産物屋の青年の顏を見ても
完全にイッチャッテる感じがしませんか?
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しばらくインドの記事ばかりで疲れた。

そこで、本日は“にっぽんめんくい党”関係でちょっと一息。

新宿ヨドバシカメラに写真用紙を買いに行ったついでに、ひさしぶりに小滝橋通りの中古レコード屋まで足を伸ばしたのだが、このあたり急激にラーメン屋が増殖したみたい。新旧ラーメン屋のなかで、かつては長〜い行列のできた超繁盛有名店『麺屋武蔵』のこのサビレようは一体どうしたことか?

西新宿 麺屋武蔵

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昼飯時なのにこのアリサマだ。店の前にいたこのサラリーマンは店に入らずそのまま立ち去ってしまった。『栄枯盛衰世の習い』とはよくいったものだ。

麺屋武蔵をスルーして私が向ったのはラーメン二郎だ。

行列こそできていないが店内はほぼ満席のように見える。

ラーメン二郎。

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ラーメン二郎でのいつものオーダーは肉入りラーメン。

野菜増し。

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べつに美味しいとも思わないのだがクセになる。

もしかすると味の素中毒になっているのかもしれない。

身体にワルそうなラーメンを食べてヨドバシカメラに向っていると、、、、。

「アッ!オームだ!」

安田生命ビル角のオーム。

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素早く描いて素早く逃げたというザツな描き方で、このテのオームは他にもあるはずとふんだら、、、、

やっぱり、

ヨドバシカメラ入り口近くの立て看板に同じ作者のオームを2個発見!

あまり、アートっぽくないオームだ。

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『街のオーム』は
私に見つかりサイトにアップされると
その数日後には消え失せる宿命だから
このオームも
そう永くはないだろう。
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Sikiri2hana
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2012年3月30日 (金)

ゴビンダ!ゴ〜ビンダ!(その2)

昨日に続いて南インドのティルパティ・ヴェンカテーシュワラ寺院ネタになるのだが、忘れないうちに書いておこう。

もし、あなたがこの記事を読んで、“霊験あらたか”なお寺に行ってみたいということだったら、個人で行かずにチェンナイあたりの旅行社が主催するツアーに現地人と一緒に参加するのが良いだろう。このお寺はどうも異邦人には敷居が高そうだ。その理由はこれから書くのだが、どうしても個人で行きたいということなら止めないヨ。

さて、

昨夜はタクシーの運転手が案内してくれたGUEST HOUSEで値切り交渉し500ルピーで決着。今朝はコーランの響きで目を覚まし、コンパクトデジカメだけをポケットに入れてティルマラに再度挑戦だ。頂上行きのバス代は30ルピーくらいだと思ったから日本円で50円程度。かつては上り下り対面通行だった道路は現在では上り専用になり、工事中だった下り専用道路も開通しているから渋滞にはならない。さすが、インドNo.1のお賽銭を集めるお寺だ。

頂上でバスを降りお寺にいたる参道を歩いていると3人連れの青年と目が合った。

「オマエたちもお寺に行くのか?オマエたちの後を尾いていっていいか?」

けっきょく、これが大正解!彼らと一緒にならなかったらまたもや参拝に挫折したことだったろう。

まず履物とバッグ類を預けなければならないのだが、この下足クロークの場所探しがインド人の彼らでさえ戸惑うほどだから、言葉も通じないフリの外国人には困難。私は彼らの後を尾いて行っただけ。ようやくサンダルとズタ袋を預け手には何も持たずハダシで次ぎに向ったのは入場ゲートだ。鉄パイプで仕切られたジグザグの通路を進むのだが、進むごとに人間が多くなっていくのがわかる。何ヶ所かのゲートから入場した人たちが、チケット売り場に続く1本の通路に合流していくから“人間密度”が濃くなっていくワケだ。

入場券売り場前にたどり着くと発券窓口の頑丈な柵を境界にしてお金と入場券のヤリトリがあるのだが、「お釣りはどうした!」「渡しただろう!」などとやり合うから列は一向に進まず後ろからドンドン押される。「早くしろよ!」窓口でお客と係員の口論。「オレが先だろッ!」お客同士の口論。みな必死だ。リーダーが代表で、両脇のヤツラを罵倒しさらに肘打ち喰らわせながらやっと手にした入場券(20ルピー)を持って、鉄パイプで仕切られたジグザグの通路を今度は一斉に走り出す。

どこからともなく、ゴビンダ!ゴービンダの声が上がると、

唱和するように皆ゴビンダ!ゴービンダ

ウォー!の歓声だ。

明治神宮初詣の参拝客が一斉にゴビンダ!ゴービンダ!と絶叫しながら、すり鉢のテッペンから底におわす御本尊を目指してジグザグに駆け下りる図を想像して欲しい。正にあの状態だ。しかも床はスロープなどでなく階段になっているから、もし誰かがここで転倒でもしようものなら連鎖し圧死者が出るのは間違いない。私は前を走る3人組のリーダーのベルトを固く掴んでゴビンダ!ゴービンダ!と叫びながら走り続けた。

あのとき私は完全にインド人になっていたと思う。

我々一般庶民はこのように押し合いへし合い争いながら前に進んでいるのだが、よく見るとポリスに誘導され別ルートで入場し合流するグループもいる。服装にお金がかかっていそうなところを見ると、やはり『地獄の沙汰も金次第』、チップの効き目なのだろう。

すり鉢の底の平地に下りると、さっきの騒ぎはどこへ行ったかと思えるほど皆穏やかな表情になって、静々とご本尊が鎮座まします本堂へと流れていくのだ。ご本尊と対面できるのは僅か10秒くらいでポリスに追い立てられ出口へ誘導されるのだが、その10秒の間にご尊顔を胸に刻み願い事を済ませシリバラジに心を残しながらその場を離れることになる。

皆大仕事をやり遂げ本堂の外に出て、葉っぱのお皿に盛られた温かいお粥状のプラサドを貪り食い、さらに砂糖菓子のお土産ももらい放心状態のまま参拝は終了になる。

帰り際、巨大な金魚鉢状の部屋の中でマスクをしてお金を数える人たちが見えた。インドで最高のお賽銭が集まるということを立証するように茶色のお札が飛び交っていた。

入場前に預けた下足やバッグを受け取りにいくと、我々4人分をひとまとめにした荷物がないという。リーダーの青年が荷物置き場の中に潜って探したが見つけられない。やがて他の場所に移されたとわかって荷物は出てきたのだが、この一連の流れを見てもやはりフリの外国人ではムリだろう。

少なくとも、私一人だったら到底成就できなかったことは確実だ。

こんなふうに突っ込んで行ったと4人で記念写真。

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後方の背の高い青年がリーダーで銀行のマネージャーをしている。
最前列のボーズがサブマネージャー。
2番目の髪の毛の濃いのが彼らの友人。
3番目の髪の毛が薄いヤツが物好きな日本人。
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髪の毛を剃るのは神に捧げるという意味をもつそうで
境内には剃髪専門床屋が店を広げている。
2番目の青年はたぶん宗派が違うのではないかと思う。
3番目の髪の毛の薄いヤツは
剃髪して神に捧げたワケでもなく
もともと薄かったのだ。

とにかく3人の青年に感謝感謝だ。

一仕事終えてHOTELで遅い昼食。

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このあとライスの係が現れて幾らでも盛ってくれる。

食事のあと、山を下りるという彼らと別れて私は山頂を探検したのだが、とにかく人ひとヒト。みすぼらしい服装の人が多い。たぶんなけなしのお金を使って、すがる思いで山に登って来たのだろう。バス停でボロにくるまってマグロ状態で眠っている人たちをみていたら侘しくなってきた。だって、さっき金魚鉢の中で舞っていたお札はこのひとたちの浄財なのだから。

山を下りよう。

昨日は荷物を持っていたからバスに乗れなかったがきょうは手ブラだ。バスに乗り込む要領も解っている。走ってくるバスの手スリに飛びつきインド人を蹴散らして座席を確保した。インド人なんかに負けてたまるか・・・アッ!そうかオレはインド人だったか。

ティルパティの街に着き、

チェンナイ行きのバス時間を聞きにいったのだが、

そうそう、この右側の神様が確かにご本尊として祀られていたシリバラジだ。

ティルパティのバス停にて。

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シリバラジという神様がどういう神様なのかハッキリわからないが、南インド土着の神様とクリシュナ神とが合体してシリバラジとなったのではないだろうかと私は想像する。

だからゴビンダ!ゴービンダ!なのだろう。
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私もシリバラジご本尊様の前を通り過ぎるときに
いくつかのお願いをしてきたのだが叶えられた気配はない。
たしか速攻で効くと聞いていたのに、、、、。
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アッ!そうか!
こうして元気で帰国できたことが
ご利益だったのかな。
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私の願い事も含め
現世利益を願う人たちのドス黒い情念が
ティルマラの山頂でトグロを巻いているような
シリバラジ参拝だった。
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改めて思うのだが
あのとき
ゴビンダ!ゴービンダ!
と叫びながら走っていた私は
間違いなく
インド人だったはずだ。

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2012年3月29日 (木)

ゴビンダ!ゴ〜ビンダ!

ユズリナンダというインドの神様業界に精通している古い友人がいる。

私の今回の旅に先立ち、南インドの情報を得るべく他の仲間数人と中目黒のシリバラジというカレー屋で食事をしたワケだ。私の場合、どうせ行き当りばったりで出たとこ勝負の旅だから、そこへ行くかどうかはそのときにならないと解らないが興味ある場所は何ヶ所かメモしておいた。

サイババのアシュラムがあるプッタパルティのバスターミナルでなにげなく時間表を見ていて、プッタパルティからティルパティ(TIRUPATI)への直通バスがあることに気がついた。切符売り場で確認するとプッタパルティ発6:30am→ティルパティ着3:00pmだという。

ここでユズリナンダのメモを思い出すのだが、ティルパティにはヴェンカテーシュワラという寺院があって、この寺院はインドで最大のお賽銭を集めているのだそうだ。参拝したあと家に帰ると問題は解決していた、願い事が叶ったというような伝説が増幅して、全国から参拝客が引きも切らないのだという。とにかく霊験あらたか、心願成就のチャンピオンというワケだ。

私は、プッタパルティのあとどこに行くか決めていなかったこともあり、直通バスの存在を知ってしまったからには行かなきゃならんだろう。テイルパティへ、ヴェンカテーシュワラ寺院へ、ご利益を求めて。

早朝、サイババのアシュラムを出てバスターミナルへ向ったのだが、道を歩いている人も少ない。バス停ではまだ床に寝ている人までいる。

南インドとはいえ床に直では冷えないかい?

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やがて人々も動き始めて茶屋のオヤジも出てきた。

プッタパルティ最後の日はこんな朝食だ。

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サイババ病院やらサイババ空港など田舎の村には不似合いの建物を左側に見て、道幅は狭いが比較的整備されている道を一路ティルパティへ。バスはボロボロだが、車の通行量も少なく、したがってクラクションの鳴る回数も少ない、快適なバス旅だ。

予定通り3時ころティルパティ到着。現地ではティルパティを略してティルチといった方が通りが良いようだ。目指すヴェンカテーシュワラ寺院はティルマラと呼ばれる山の上だというので、頂上行きのバスに乗り換える。

ここまでは順調にコトは運んだのだが、じつはこれからがタイヘン!

ティルマラにおわす神は、

異教徒で、

しかも、

冷やかし半分の私を

そう簡単には受け入れてはくれなかったのだ。

ティルパティの街に着いたときはカンカン照りだったのだが、バスを乗り換えてティルマラの頂上に着いた頃から雨が降り始めた。山頂の門前町で1泊するつもりだったから、早いとこホテルに入りバックパックを置いた方が良さそうだ。HOTELの看板はたくさん見かけたから泊まるには困らないだろう思ったのだが、これが勘違いの始まり。HOTELを何軒回っても宿泊拒否だ。

「オレが東洋人だから泊めてくれないのか!」

冷たい雨の降る路上にたたずみ

天を見上げてクチビルを噛み締めるという図だ。

そして、気がつくのだが、、、ここでHOTELというのは宿泊するホテルではなく、レストランのことを指すということを。たしかに何軒か回ったHOTELはすべて100卓以上はありそうなテーブル席で、皆ミールスを食べていた。

一般に我々のいう宿泊のためのホテルはGUEST HOUSEなのだ。

そうと解ったらハナシは早い。GUEST HOUSEを探して「部屋はあるか!」と訊いても、またもや宿泊拒否。

「何でだ?異教徒だからか?金ならあるゾッ!」

数軒のGUEST HOUSEをあたったがラチがあかない。相手は説明してくれている様子だが何しろおぼつかない語学力の日本人と、一方的にまくしたてるインディアン英語とのセッションだからまるで噛み合ず、部屋が確保できない理由が解らない。

いろいろヤリあった末に解ったのは、この山頂のGUEST HOUSEのすべてはアンドラプラデッシュ州政府が管理していて、宿泊するためには州政府のオフィスで登録したのち、割り当てられたGUEST HOUSEに行かなければならないということ。

イヤイヤ、、、参ったなぁ。リュックサックと重いカメラバッグぶら下げて通行人に訊きながら雨の中を州政府のオフィスに行きましたヨ。やっとたどり着いたオフィスで必要事項を書いた書類を提出し、宿泊したい旨伝えると、またもやNO!だ。

「ヘイ!オフィサー!あなたは、ヒンズーイズムを学ぶためにはるばる日本から訪れた私に部屋はないという!その理由や如何に!前のインド人たちは皆部屋を確保したではないか!異教徒だからダメなのか?」

州政府の役人が言うには一人へ部屋は貸せないという、その理由は、一人だと自殺するヤツがいるから、、、、。

「もうイイヤ!参拝はやめ〜た!帰ろう!夜行バスでチェンナイに行こう!」

そう思って帰りかけたとき、壁にかかっている絵に気がついた。

その絵は中目黒のインドレストラン・シリバラジで見た絵だったのだ。

「ところで、オフィサー、あの神様は何という神様だ?」

役人は、そんなことも知らないでここに来たのかというような顏をして、

あれはシリバラジだと言いやがる。

そういうことだったのか。

私がインドに来る直前、ユズリナンダと食事した中目黒のシリバラジというインドレストランは神様の名前で、いま私は正にそのシリバラジを祀るお寺の門前で今夜の宿を探して四苦八苦していたのか。

『引き寄せ』たのか、『引き寄せ』られたのか、

オモシロイ偶然もあるもんだ。。

この寺院のご本尊がシリバラジだと知ってしまったからには、チェンナイは後回しにして、何としてでもお参りしなくっては。

雨はますます強くなり薄暗くなってきた。山の麓とは標高7−800mくらの差だろうが、雨に濡れたせいで身体が冷えてくるのを感じる。これだけの荷物を持って野宿というワケにもいかない。バス停の待合室で、ボロ雑巾状態で横たわっていた現地人と一緒になって寝るのもイヤだ。

ヨシッ!今日のところはいったん山を下りよう。

今夜は麓のゲストハウスに泊まろう。

せっかくティルパティの町まで来て、このまま参拝もしないで帰ったんではオトコがすたるし、何より悔いが残りそうな気がする。態勢を立て直して明日再びチャレンジだ。そう決めてリュックサックとカメラバッグをぶら下げて、バス停まで戻りバスが来るのを待っていたのだが、これがまたタイヘン。

山を下りる始発のバスだから空車が入って来るはずなのに、インド人は向こうから走ってくるバスに途中で群がり、ドアから窓から先を争って飛び乗るからバス停に着くときにはパンパン状態だ。大きな荷物を持っている私などとてももぐりこむ余地もない。数台のバスをやりすごしてからバスに乗るのは諦めタクシーを探したワケだ。

バス停を出るとタクシーの運転手らしき若い男と目があった。

「ヘイッ!街までハウマッチ?安いホテルを知ってるか?」

もしかすると、日本でいうところの白タクだったかもしれないが、若い運転手とタクシー代500ルピーで交渉成立。部屋代は1000ルピーまでというこちらの予算通りのゲストハウスへと案内してくれた。

旅から帰ってくると
どこがキレイだったとか
ナニが美味しかったというような記憶は
すぐに薄れてしまうものだが
こういう四苦八苦したことというのは
細部まで覚えているものだ。
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というワケで
ティルパティ編は明日へ続く。

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2012年3月28日 (水)

愛と恍惚のマサラドサ

旅行中の写真を整理していて気がついた。

オームと犬が多いけれど食べ物の写真も多いことにも。

そして、どんな風景写真よりも、コンパクトデジカメでザツに写した1枚の食べ物写真のほうが、そのときの気持ちを甦らせてくれることもあるものだと。

バス停で食べたイドリという蒸しパンのような朝飯だ。

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これはチェンナイのプーリの朝飯

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ゴア・パナジ食べたこれもプーリの朝食。
思い出した。
ここでは水でなく白湯をコップに出してくれたのだ。
白湯の一口でエネルギーが甦ってくるようだった。

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場所は思い出せないが中西部のドライブインだった。

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ラメシュワラムのミールスだ。

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南部での昼飯はミールスと呼ばれていて
お代わりしたければ何度でも追加してくれる。
いい気になって食べ続けると
ミールス腹になるから要注意。

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南部ではミールスだが
北部ではタリーと呼ばれていて
もちろんお代わり自由。

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私が一番多く食べたのはマサラドサではないかな。
ゴア・カラングートのレストラン。

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ポテトを具にしてクレープの皮で包んだようなもの。

間食に良し主食に良しというところだ。

私がマサラドサを食べていると近くのテーブルにこんなものが運ばれてきた。

円錐状にとんがっているあの食べ物は何だ?

気になって気になって、自分のマサラドサを放ったらかしてわざわざ聞きにいきましたヨ。

ゴア・カラングートのレストラン。

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そうしたら「これはプレーンドサ」という答え。

要するに皮だけの具なしクレープだった。

総じて食べ物は
味・種類・料金ともに
南部の方に軍配が上がりそうだった。
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2012年3月27日 (火)

愛と青春のアフガニスタン

「足りてるかい?

オレはいつもこのあたりにいるから、

欲しいときにはいつでも声をかけてくれ」

ムンバイ(ボンベイ)の某所。

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いかにもそれらしい風貌の男と別れてまずは散髪。

ムンバイ、腕自慢の床屋だ。

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物議を醸したこんな図もここでは生きている。

ムンバイの街角。

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アンマのステッカー貼ってあるこんな店で、

ムンバイのレストラン。

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こんなメシを喰い、

PUREヴェジタリアン

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マーケットを歩いているとこんな男たちと鉢合わせ。

ムンバイのアフガニスタン人。

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『サラマレコン!』

そう声をかけると彼らはビックリした顏でたちどまり、

『アレコンサラーム』と挨拶を返してきた。

「オマエはモスレムか?」

「ちがうちがう、オレはブッディストだ」

アフガニスタン人だな、オレはアフガニスタンに行ったことがあるぜ、1974年ソビエトの前だ、カブール、マザリシャリフ、バーミヤン、カンダハル、ヘラート、みんな知ってるぜ、

彼らは、

自分たちが行きたくても行くことのできない祖国の地名が、日本人の口から出て、しかもその日本人は再びアフガニスタンに行きたいと言う。さぞかし驚いたことだろう。

嬉しそうな顏をしている彼らと握手をして別れた。

このマーケットの奥で宝石商をしているのだという。

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Sikiri
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先日、パソコンの小物を買うため小田急で新宿へ向っていたときのことだ。

明らかにモスレムとわかる服装の青年が経堂駅から乗り込んできて私の隣に立った。

パキスタンかな?アフガニスタンかな?

判断がつかなかったが『サラマレコン』と声をかけたら、その青年、アタマをのけぞらせて『アレコンサラーム』と挨拶を返してきた。訊けばアフガニスタン人だという。そうと解れば私の得意のアフガントークだ。

オレはアフガニスタンに行ったことがあるぜ、1974年ソビエトの前だ、カブール、マザリシャリフ、バーミヤン、カンダハル、ヘラート、みんな知ってるぜ、カブールにはパキスタンのペシャワールからカイバル峠を越えて入った。またアフガニスタンへ行きたいと思っているのだが命が危ない。

ところで、アフガニスタン人のキミは何故こんなところにいるんだ?

そう訊くと、彼は政府の留学生として経堂の東京農大で学んでいるのだとの答え。

日本は素晴らしい、爆弾も飛ばないし、毎日平和だ、アフガニスタンにもこんな平和が一日も早くくることを願って、きょうも祈ってくる。

彼はモスクへいくために代々木上原駅で下り、私はそのまま新宿へと向った。

私の知っているのは
『サラマレコン』
『アレコンサラーム』

の2語だけだが
この2語を発するだけで
モスレムとの距離は一挙に縮まることはまちがいない。
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2012年3月26日 (月)

『インド夜想曲/アントニオ・タブッキ』に捧ぐ

今回のインド旅行で

私がバッグの中に入れていた本のなかの

著者が亡くなった。

68歳か、、、まだまだ若かったんだなぁ。

2012.03.26(月) 読売新聞

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『インド夜想曲/アントニオ・タブッキ』

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インドの深層にふれる
ミステリアスな内面の旅行記
タブッキの代表作を須賀敦子の名訳で
白水社

この本に出てくる場所

1 カジュラーホ・ホテル
Suklaji Street番地なし 
ボンベイ


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Suklaji Streetまでたどり着いたが
カジュラーホ・ホテルは何人に聞いても不明だった。
売春窟のニオイは充分に残っていた。

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2 ブリーチ・キャンディ病院
Bhulabai Desai Road
ボンベイ


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小説では医者がカルテに埋もれているシーンが出てくるが
現在は近代的な病院になっている。

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3 タージ・マハル・インターコンチネンタル・ホテル
Gateway of India
ボンベイ


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事件の後はセキュリティが厳しく
冷やかしにお茶を飲みに入れる雰囲気ではなかった。

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4 鉄道休憩室、ヴィクトリア・ステーション
Central Railway
ボンベイ
宿泊には未使用の鉄道乗車券あるいは
インドレイル・パスが必要。


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時節柄、
鉄道駅構内で写真を撮ってトラブルになっても困るから
ステーション・マスターの事務所に撮影許可を貰いにいったら
「好きに撮って良い」との返事だった。

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5 タージ・コロマンデル・ホテル
5,Nungambakkam Road
マドラス


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新築されたのだろう、近代的なホテルだった。
ガードマンに
『<マイソール>というレストランは今でもあるか?』
と訊いたら不審に思われセキュリティ・オフィスに連行されてしまった。
もちろんパスポートチェックを受けて無罪放免だ。

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6 神智学協会
12, Adyar Road, Adyar
マドラス

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神智学協会は『地球の歩き方』にも載っている。

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7 バス停留所
マドラス=マンガロール街道
マンガロールの約500キロ手前
正確な位置は不明


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小説では奇形の占い師が登場するマンガロール街道だ。

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8 Arcebispado e Colegio de s.Boaventura,
カラングーテ=パナジ街道 旧ゴア
ゴア


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パナジ街道の床屋。

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9 スアリ・ホテル
Swatantrya Path,番地なし、
Vasco da Gama ゴア


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スアリ・ホテルは取り壊されて
ショッピングセンターを建築中だ。
今年中は完成といってたがもちろんンインド時間だろう。

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10 カラングーテの浜
パナジより約20キロ
ゴア


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カラングーテビーチの猫屋敷。
家の中で昼寝中の猫もいると言いやがる。

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11 マンドヴィ・ホテル
28,Bandodkar Marg, Panaji
ゴア


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パナジ市内にあるホテルだが
お客はビーチの安ホテルに流れて
サビレ感は否めない。

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12 オベロイ・ホテル
Bogmalo Breach
ゴア


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オベロイ・ホテルは
Bogmalo Beach Resort
と名前が変わっていた。

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故・アントニオ・タブッキさんに捧ぐ
あなたの小説に引き寄せられて
舞台となった場所を訪ねた日本人がここにいます。
(撮影:2011.12-2012.1)
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愛と追想のポンディチェリー

私は列車やバスの移動は何時間でも苦にならないタチだ。あんがい、こうして移動することが目的でないかと思えるほど。車内の乗客観察や流れゆく景色をボーッと見ているだけで飽きない。

今回の旅のほとんどの移動はバスを使ったのだが、、、

そのインドのバスはだいたいこんなもの。

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日本だったらとうてい車検が通りそうもないスクラップ寸前のバスが平気で走っていて、しかも5時間でも6時間でもフルスピードだ。クラクション鳴らしながら追い越し追いこされ、センターラインを越えてくる対向車に『ウッ!』と叫びを飲み込むこともしょっちゅうだ。乗客のインド人たちは慣れたもの、平気な顔していることにも感心する。

チェンナイからプドゥチェリーまで、例によってクラクション鳴りっ放しのバスに乗って4時間くらいだったろうか。ここプドゥチェリーはポンディチェリーと呼ばれていたころに来たことがあるが、このポンディチェリーの特殊なことは約250年間にわたってフランス領だったことにある。

インド人街とフランス人街とはハッキリ区別されていて、雑然としたインド印度の地区と、ベンガル湾に面して区画整理されたおフランス地区の落差は、支配される者と支配する者の力関係を如実に現している。

40年前、まだ『地球の歩き方』も出ていない頃、私がどうしてポンディチェリーのことなど知っていたのか解らないが、とにかくこの街のシュリ・オーロビンド・アシュラムにいたことがあったのだ。とくに霊性を磨いていたワケでもなく、毎日プロムナードと呼ばれる遊歩道をブラブラしていただけで、コロニアル調の街並とベンガル湾のそよ風の心地よさを忘れることはない。

今回は40年後のセンチメンタルジャーニーだね。

しかし、昔のポンディチェリーと雰囲気が違うことはバス停からアシュラムに向いながら気がついていた。街がどうもささくれだっているのだ。

シュリ・オーロビンド・アシュラムで宿泊の申請をしたのだが、あいにくインド人で満杯だという。そこで紹介してもらったゲストハウスにアドレスのメモ片手に向う道すがら見た景色は、何本もの立ち木は倒れて粗末なニッパ椰子の家は軒並み潰れている。

あとで解ったのだが私が訪ねる1週間前、この街をハリケーンが襲ったのだという。心地よかったベンガル湾からの風は強風となって大きな被害を与え、それらの片付け復興も進まないときに私が訪れたことになる。

ようやく探し当てたゲストハウスも庭が倒れたまま。

サッカー・ゲストハウス

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階段に向って大声で「ハロー!ナマステ!誰かいないか?」

怪訝顔で下りてきた女性にアシュラムからの紹介状を見せてパスポート・チェック。

1泊150ルピーというのが嬉しいではないか。
このマダムもなかなか雰囲気のあるひとだった。

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壁のポートレートは
シュリ・オーロビンド(1872-1950)と
マザー(1878−1973)と呼ばれ慕われた後継者。

私が、この街には1973年に一度来たことがあるというと、マダムは

「1973年?、、、、何月?」と訊いてくる。

「たしか秋頃だったと思う」と私。

私にキーを渡しながらマダムは「マザーには会ったの?」と再度訊いてきたが、私にはその意味が解らなかった。ムカシもそうだったし今でもそうだが私はシュリ・オーロビンドの教えを学ぼうとしてポンディチェリーを訪れたワケでもなく、単なるモノズキ男だ。

あとで知ったのだが、

マザーが亡くなったのが1973年11月17日だったのだ。

ゲストハウスの体裁は整っているが旅行者の泊まっている気配はしない。かつては賑わいをみせた時代もあったのだろうが、アシュラムの主施設はすでに丘の上のオーロヴィルへと移転し、役目を終えたゲストハウスも大きな図体だけが残る幽霊屋敷のようだ。たまに私のようなモノズキが訪れるだけなのだろう。

薄暗い部屋にバックパックを解き街へ出てみれば、コロニアル調の町並みはそのままでも海岸通りのプロムナードは砂ぼこりにまみれている。

インドとは思えない町並みだ。
ただし木が倒れたままになっている。

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翌日オーロヴィルへと行ってみた。

オーロヴィル(Auroville)とは。

プドゥチェリーの北およそ10km。オーロビンドの後継者であるフランス人女性Mirra Alfassa(通称マザー、1973年に97歳で死去)の提唱により造られた理想都市。現在2000人がここで生活している。その3分の2以上は西欧諸国から移住してきた外国人だ。(中略)オーロヴィルの中心にある、近未来的な球状型の瞑想ホールがマトリマンディルMatrimandirだ。マザーの死とともに工事が中断されていたが、1988年に建築が再開され、現在は完成した姿を見ることができる。ただし内部は一般には公開されておらず、外側の展望台からのみ見学可能だ。
(『地球の歩き方/インド』より)

オーロヴィルへ着くまでの細い道の両側にはレストランやゲストハウスの看板が点在しているが利用客のいるような気配は薄い。ハリケーンで倒された草木が放置されていて全体に廃れている印象だ。

カシミールからきた土産物屋でオームの採取。

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入場ゲートを越えマトリマンデルへ向っているとき、子犬を連れた母子が前を歩いていた。

このところ犬づいている。

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林を抜けたときに突如出現したマトリマンデル。

瞑想ホールというけれど、深夜になると“桃から生まれた桃太郎”状態にパカッと開いて、中から宇宙船が飛び立つんじゃないか?

内部は見学できないそうだが、
マトリマンデルに向って瞑想するオームシャツのお嬢さん。

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内部を公開して誰でもが座って自己の内面に目を向けられてこそ瞑想ホールだと思うのだが、、、あんがい内部は放ったらかしだったりして。それとも宇宙船が格納されているのかな。

40年前、そのマトリマンデルっていうのはいつ完成するんだ?とインド人に訊いたら「わからない」という返事だった。その瞑想ホールがすでに完成していたんだなぁ。

マトリマンデルを中心に理想都市を築こうという壮大な計画だそうだが、それでは、理想とする都市とはどんな都市なのかまでは解らない。あんがい、フランス人らしく個人主義の追求だけで尻すぼみになりそうな予感がする。

私にとっての理想都市はカレーも食べれてラーメンも食べれてピザも食べれる街だ。

というワケで、、、。

ポンディチェリーのピザハット。

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ちょっと、苦しまぎれのこじつけのような気もするから、罪滅ぼしにポンディチェリーで見かけたオームマークだ。

オームシャツのイギリス青年。

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この街にも再び訪れることはなさそうだな。
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2012年3月25日 (日)

愛とシカトのシルディ

プッタパルティのサイババからは特にインスパイアーされるような経験はなかったが、それでも行ってよかったと思っている。私の性格からして、行かなけりゃ行かなかったで悔いが残っただろうから。

これでひとつケリがついたように思えるのだ。

ところで、

これまでサイババ、サイババと言ってきたが、これはサティア・サイババのことで、インドにはもう一人サイババと呼ばれる聖者がいたことを書いておかなければならない。サティア・サイババが子供のころ「私はサイババの生まれ変わりである」と宣言したことでグルへの道を歩み出したのだが、サティア・サイババの前世とされるサイババは、住んでいたシルディ村にちなんでシルディ・サイババといわれて崇められている。

シルディ・サイババが初代であり

サティア・サイババは二代目

というワケだ。

ただしこれはサティア・サイババ側の一方的主張で、シルディ・サイババ側ではまったく無視しているのが現実のようだ。だから私もシルディ滞在中はサティアのサの字も言わなかった、財布の中の写真を出すこともなかったのだ。

さらに、インドではサイババといえばシルディ・サイババのこと。シルディ・サイババが全国区だとすればサティア・サイババは地方区の扱いになることも覚えておいた方がよいだろう。サティア・サイババのポスターはインド南部のごく一部でしか見れないが、シルディ・サイババとなるとインド全土にあふれている。一番有名なのは白いローブに右脚を組んでいるポーズで、インドを旅していればどこでも見かけることができる。

これが一番知られたポーズだ。
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輪廻転生のハナシになると私には手に負えず、ましてやサティア・サイババがシルディ・サイババの生まれ変わりかどうかまでは解らない。しかし好奇心の強いサティア・サイババのファンとしては、シルディ・サイババを祀るお寺にも興味があるからこの際挨拶しておこうかとシルディ行きのバスへと乗り込んだワケだ。

参考までに書いておくと、前章で『地球の歩き方/インド』からサティア・サイババの本拠地プッタパルティへの行き方がいつのまにか削除されたと書いたが、シルディ・サイババの本拠地シルディへの行き方は現在もコラム欄に残っている。

これも有名なシルディ・サイババの絵だ。

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道路沿いにサイババの名前を冠した建物が増えてきたと思ったら、バスは一挙にシルディワールドに到着。メーン道路から裏小路まで、土産物屋、ホテル、レストランとサイババSAIBABAで埋め尽くされている。

サイババ成金を思わせるショッピングセンター。

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シルディを訪問して初めて解ったのだが、これまでサティア・サイババで使っていた『サイラム!』やバジャン、儀式での式次第などは、これすべてシルディ・サイババテンプルをマネしたものだということ。サティア・サイババのオリジナルなものは何もないなッ。悪くいえばすべてが初代のパクリじゃないのかなッと気がついた。

もっともヒンズー教何千年かの歴史を踏襲したものであるという言い方もできる。

入場を待つ信者の行列。

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私がカメラを構えるとお犬様が三つ指ついて出迎えてくれる。

今回の旅ではヒンズー教徒にとっての聖地と呼ばれる場所も何ヶ所か回ったのだが、南部タミールナドゥあたりの巡礼者の、あの「やっと、念願のお寺参りが成就した!」という歓びの感情表現も薄く、中部北部のお寺になるとみな淡々としている感じだ。

シルディのサイババが亡くなったのが1918年だから、まだ100年もたっていない。何千年前から信仰される神様への参拝と、聖者と敬われていてもつい最近まで生きた人間を祀るお寺への参拝では、その達成感のレベルが違うのかな。

そのうち
「我こそはサティア・サイババの生まれ変わりである」
と称するカーバがアッチコッチに出現することを予感させる
シルディ・サイババ訪問記でした。
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2012年3月24日 (土)

愛と哀しみのプッタパルティ

今回の私の南インドの旅は最初「スリランカに行こうかな?」から始まり、次に「どうせスリランカに行くならババの墓参りを済ませようか」になり、「いっそのこと南インドを回っちゃえ」に拡大し、最終的には過去に彷徨ったことのある南インドをなぞるようなルートになってしまった。

ばななさん、こんにちは。
(略)さて、質問です。今までで一番強烈なしなくても良い経験はどんなことですか?私はなめくじを素足(踵の方)で踏んだことです。
   (2001.09.24ーナビス子)

取材でサイババの会を見学にいったことです。・・・・・多くは語りませんが、さっしてください。
   (2001.09.24ー吉本ばなな)

  YOSHIMOTOBANANA.COM
   吉本ばなな
   玄冬舎(2002年4月10日 第1刷発行)

今をときめくベストセラー作家の吉本ばななさんをして「今までで強烈なしなくても良い経験」として「サイババの会を見学にいったことです」といわれてしまった、その“サイババの会”に私はかなり熱心に参加していたことがあります。そのことはかつてのホームページやこのブログで何回も触れたとおりだ。

2000年初めころからサイババの会とは没交渉だが、その後も私の中にサイババは生きていて、それは一般にいわれるような『信者』とか『帰依者』というより、サイババファンクラブ会員というのが正確な関わり方だ。ただし、サイババファンクラブの会員は私ひとりで別に対外的な活動をしているわけでもない。スキャンダルの絶えないスターに「それでもキミを愛す」と手を振るファンのようなものだ。

とにかくミーハーなつきあい方だから、サイババの一連の物質化がすべて初歩の手品だったことを実際に目撃しても驚かなかったし、“幼児虐待”という告発本を読んでも「かなりの部分は真実だろう」とまったく冷静だったのだ。

あれだけブームを煽りに煽ったメディアがロクな検証もせず正義の味方ヅラしてサイバババッシングを報道したこと。まぁ、メディアの手の平返しはムカシからそうだけど、私がもっとも驚いたのは、それまでサイババこそが世界を救うとばかりに「ババさま」「サイババさま」と提灯ふりかざしたひとたちの多くが、一連のサイババ非難の流れを見て一斉に口をつぐんでしまったことにある。

 「なるほど、これがアタマの良いひとたちの世渡り術なんだなッ」

せめてだなぁ、、、

「それでもサイババさんを信じています」

「いまではサイババを信じたことを恥じています」

これくらいのことは公言して欲しかった有名人はいっぱいいるのだ。

だから、吉本ばななさんの前記の発言も、糸井重里さんの『なんで今頃サイババなんだよ』もそれはそれでケジメのつけかただと思っているのだ。もっとも、最初っから金のニオイだけでスリ寄ってきたヤツは黙って去って、他の騙しの技を磨け。

私は常にサイババが最終目的ではないと思いながらつきあってきたのだ。まだボンヤリとしか見えないけれどサイババというフィルターの向こう側にこそ私の探しているようなものがある気がしているのだ。マラソンで例えればゴール地点に私の求めるものがあって、サイババは途中の給水ポイントでエネルギーを補給してくれたり、分岐点でコースを指し示す係員だといった方が理解しやすいだろうか。

私は要領ワルイから、一目惚れのお方を生涯ただただ愚直に見つめているだけという、とにかく屈折した感情をもつファンなのだ。

そのサティア・サイババが亡くなったのは2011年4月24日。

その訃報に接したときから

「いずれサイババの墓参りに行かなきゃならんだろう。

そうしないと折り返し点に到達しないだろう」

そんな思いが常にアタマの中にあって、今回の南インドの旅へとつながっていったのだ。

さて、

数年前の『地球の歩き方/インド』にはサティア・サイババのアシュラムがあるプッタパルティへの行き方が紹介されていたこともあったから、動機の濃淡はあったとしてもそれだけサイババを求める人がいたことの証拠だろう。しかし、そのサイババも最新版の『歩き方』からは無視されたようだ。

私はプッタパルティ訪問は今回初めてだが、

行き方はガイドブックを見るまでもなく簡単。

とにかく南のバンガロールに行けばいいのだ。

バンガロール行きの飛行機に乗るべくボンベイの空港に行ったのだが、ルピーが心許ないのに気がついた。空港内の銀行で当座のお金を両替して立ち去ろうとすると、その銀行係員がブースの中から「サイラム!」などと言いやがるではないか。

ナニッ?!サイラムだって。

ここはインド各地へ出発するヤマほどある便の出発待合室だ。バンガロール行き専用待合室でもないし、オレがバンガロールへ向おうとしていること、サイババの所に行くんだと喋ったワケでもないのに、、、何でこの銀行員はサイラム!などというんだ。

早速始まったぜ!サイババ劇場が。

  何だナンダゴーパーラ、あ〜ぁ何だナンダゴーパーラ

その銀行員が財布からサイババの写真を出したので記念撮影だ。

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ITバブルに沸くといわれるバンガロールの町には入らず、ピカピカの空港からここがインド?と思えるようなハイウエイをタクシーでプッタパルティに直行だ。さすが経済好調のインド、幹線道路が見事に整備されているから車での移動は実に楽だ。この道路状況からも40年前とは様変わりしているのを実感する。

空港から北のハイデラバード方面に走るハイウエイを逸れて東に入ればのどかな農村風景になって、スレ違う車にはサイババのステッカー。アッチコッチにサイババのポスターが見られるようになってプッタパルティに近づいていることがわかる。

途中こんな羊の群に道路を塞がれてしまったりする。

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快適なドライブを経てサイババのアシュラムに着いたのは夕方だった。

レジストレーションオフィスでパスポートチェックを受け、宿泊料(20ルピー/1日)を払ったりの事務手続きを終えた後に割り当てられたのがこんな2段ベッドの部屋だ。

この建物だけで総ベッド数が100床くらいあるだろうか。

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こんな建物が数棟あって特別な行事があるときにはそれぞれ混み合うんだろうが、このときはガ〜ラガラ。この大きな部屋に10人くらいの滞在者だった。ダージリンとかネパールからの団体などは古くて暗い建物のコンクリート床にタコ部屋ボロ布状態で寝ていたから、外国人訪問者ということで優遇されているんだろう。

滞在中日本人はいなかったが(少なくとも日本語は聞かなかった)、やはりここもロシア語は飛び交っていた。

右の赤シャツがウクライナ人。
左のオームシャツがロシア人。

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そして、こんな剛の者までいた。

南アフリカ人。

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プッタパルティの滞在数日経験から結論をいってしまうと、

残念ながらサイババアシュラムからインスパイアされることは何もなかったということだ。

サイババ存命中のプッタパルティについては知らないが、主なき現在のアシュラムには緊張感もなく、ただダラダラと歩き、メシ喰ってソークして、朝と夕のバジャンにおざなりに座って、無駄な時間が過ぎていくだけの印象だ。ただし、もしあなたがインドの厳しい旅でボロボロに疲れきってしばらく休養をしたいということであれば、プッタパルティのサイババアシュラムを推薦したい。

安価な宿泊費に美味しい食事(ヴェジタリアン)を摂って体力の回復を図り、さらに次の目的地へ向おうということであれば、ここは最高の場所だ。

ここで思い出した。

サイババの会(by:吉本ばなな)にいたころのことだ。

「娘がインドのアシュラムに行くと言って出て行ったきり帰ってこない。いまインドの地図を見ているのだがアシュラムという地名が見つけられない。いったいアシュラムという町はどこにあるんでしょう?」

変な宗教に呆けてしまったのではないか?という娘の身を案じる母親の切実な電話を受けたことがある。

「アシュラムというのは町の名前ではなく、修行道場ということで、サイババのアシュラムは南のバンガロールという大きな町の近くにあります」と説明したのだが、あの娘はその後どうしただろう。

愛だとか奉仕だとか、耳障りの良い言葉を弄ぶアブナ系の人たちに感化されて、自分のアタマで考えることを放棄してしまった人たちはずいぶん多く見てきたが、あの人たちはちゃんと社会復帰したんだろうか?それとも、、、、。けっきょく誰も導いてはくれないことに気がつき、自分の中の羅針盤を信じて航路を探すしかないと漕ぎ出してくれたら良いのだが。10数年も前のことになる。

あるていど予想していたことだが、何も得ることがないままプッタパルティを去ろうという前日の夜、いちおうマンディールのサイババの棺に挨拶を済ませ宿泊棟に戻ろうとしたとき、数人のインド人が空を見上げながらザワザワしている。

サイババがいると騒いでいるのだ。

お月さんの右側に右手かざしたサティア・サイババ、左側に脚を組んだシルディ・サイババがいるというのだ。それも一人や二人ではない、何十人ものひとがお月さんを指差しサイラムサイラムと拝んでいる。

「オイオイ、、、マジかよ!タイヘンな場面に出くわしてしまったぜ!」

大喜びで空を見上げたが私には何も見えない。AV のモザイク見るように目を細めたりしながらお月さんの周辺をみつめたのだが、両サイババのカケラもな〜んにも見えやしなかった。

どこにもアブナ系はいるもんだ。

そう思いながら写真に撮ろうとカメラを出したら「アシュラム内撮影禁止だ!」とセバダルが止めにきた。バカもの!下がれ!オレを誰だと思っている!!!オレはパダナマスカール最長不倒時間記録保持者だぞッ!セバダルの制止など無視して撮ったのがこの写真だ。

手をあげているセバダル。

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ディスプレイの画像を拡大して確認したのだが、もちろん人間の形らしき影も明かりも認められない。

なるほど
なるほど
一人の錯覚がこのように伝播し
伝説が作られていくのだな。
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そんなことに気がついたプッタパルティ最後の夜だった。
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「ババ様はあなたにだけお姿が見えないようにしているのよ」
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いつになっても
尤もらしい顏してそういうことをのたまうアンタ!
手遅れにならないうち早く病院へ行った方がいいぞ。
もう手遅れだったりして。
ヒッヒッヒッヒヒー・・・・・

イヤハヤ、

だんだん興奮してきたから、

こんな画像を見て心を鎮めましょう。

アシュラム内をランドリーのご用聞きに回る女性と友達だ。

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こういう穏やかな表情になれるのも
蓮華の御足のもとにいるからかな。
サイラム
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2012年3月23日 (金)

スリランカへの手紙

外国の地で街角スナップ撮っていると「オレを撮ってくれ」と声をかけられることもある。別に見返りを求めるワケでもなく、撮られたことで満足したようにそのままグッバイと別れるのだが、ときには「写真を送ってくれ」とアドレスのメモを渡されることもあるのだ。ムカシだったら住所だったのだが、最近はだいたいメールアドレスだから画像添付のメールを送るだけで便利になったものだと思う。

コロンボの街をリキシャで流していて信号待ちしていたら、右隣にYAMAHAのナナハンオートバイが並んだ。新車なのかピッカピッカ。伝わってくるエンジンの振動も心地よい。

  「ビューティフル バイク!」

親指立てて声をかけたら、バイクの運転手も親指立てて挨拶を返してきた。フルフェイスのヘルメットの中で目が笑っているのがわかる。信号が変わってYAMAHAは私の乗ったリキシャを置き去りにして一瞬のうちに飛び出して行った。

私がYMCAのあたりを歩いていると、前方からニコニコ笑いながら近づいてくる男がいる。あまり愛想の良いヤツには要注意と身構えたのだが、その男はバイクのアクセルを吹かす仕草をする。

何だ?何だナンダゴーパーラ、

何〜だ!YAMAHAバイクの男だったか。さっきはフルフェイスのヘルメットを被っていたから気がつかなかった。

彼は中国語の通訳をしているそうでこれから事務所に行くのだという。あんな立派なバイクに乗れるということは景気がいいんだろうな。撮った写真を送ってくれと貰った名刺にはちゃんと中国語の名前・住所も併記してあった。

写真はもちろん帰国後に送ってやった。

YAMAHAバイク男
コロンボにて。

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仏教国スリランカの観光名所にキャンディ(KANDY)がある。

お釈迦さまの歯が祀られている仏教徒にとって最大の聖地だ。

参拝を終えて寺の外に出ると少年少女が瞑想をしている。ときどき薄目を開けて周囲の様子を見ているところをみると、瞑想というより“瞑想の真似事”といったほうがよいだろう。可愛い子供たちだったので写真を撮ってその場を立ち去ろうとしたら父親らしき男に声をかけられた。写真を撮ったことに抗議されたワケでもなく「写真を送ってくれないか」とメールアドレスに下線をひいた名刺を渡された。

写真はもちろん帰国後に送ってやった。

キャンディにて

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インドもスリランカも犬が多い。可愛い犬を見かけるとついついシャッター押したりするから、私のカメラの中はオームと犬の写真でパンパンになっているのだ。インドネシアあたりと違って犬も人間の仲間として可愛がられているのが犬好きとしては嬉しい。

ゴールの街を歩いていると穏やかな顏の犬が恭順の意を示しながら寄ってきた。

オー、そうかそうか、写真を撮って欲しいのかとシャッターを押すと、

メールアドレスの書かれたメモをwatasa・・・・・

そんなことないな、ソフトバンクのお父さんじゃないんだから。

ゴールにて

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さて、

スリランカにはインドのチェンナイからジェットエアウエイズで入ったのだが、チェンナイ→コロンボは約1時間半くらいの飛行時間。水平飛行に入ったと思ったら降下態勢だから早いものだ。

チェンナイ空港でチェックインを待っていたら、サイババファンクラブである私のセンサーが懐かしいモノを捉えた。ンッ? アレは? シンガポール・サイセンターのマフラーだ。

プッタパルティ訪問を終えて、これからシンガポール航空で帰国の途につくのだという。

いまどきサイババのために32人の巡礼団を結成できるというのも立派なものではないか。

チェンナイ空港にて

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アドレス交換してないので写真は送ってない。

このときのジェットエアウエイズだが、何故か理由がわからないまま出発が大幅に遅れてコロンボに着いたのが早朝4時ころになってしまった。早暁のコロンボをタクシーの運転手と必死になってホテルを探し回り、やっと見つけたのが一目で連れ込みとわかるホテルだ。連れ込みでもラブホテルでも何でも良いからとにかく寝たい。昼まで寝てそれから別のホテルを探そうとシャワーも浴びずに寝たのだが、朝7時過ぎには起きてしまった。

睡眠時間2時間くらいでも目がさえて疲れも感じない。

窓もない部屋にいるのもイヤなので外に出ると、張っていたリキシャマンと目が合った。

「2時間コロンボ市内を回る。ハウマッチ?最初にチャイを飲みたい」

とリキシャに乗り込んで現地人向けのレストランに行き、朝飯代わりにワケの解らないモノを食べてやっと人心地つき店内を見回すと、、、、、。

「アッ!サイババだ!」

コロンボ:A ONE CAFEにて。
レジの壁にサイババがいることに気がついた。

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コロンボ:A ONE CAFEにて
厨房入り口にもサイババがいる。

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 「この世に偶然はない」

“精神世界関係者”には定番のこんな言葉を、ときには納得し、ときには無視してきたご都合主義の私だが、コロンボ初日、リキシャマンがたまたま案内してくれたレストランでサイババと対面するとはなぁ。

サイラム サイラムだぜッ。

このことに意味があるのか意味がないのか、思いがけずも出会ったサイババに不思議な気持ちで店を出るとき、レジに座っていた店主らしき男が「写真を送ってくれ」とメモを渡してくれた。それはメールアドレスではなく、所番地の書かれたアナログ住所だった。

義理堅い日本人旅行者としてはプリントアウトして送ってやらなければならんなぁ。

ちなみに
スリランカでサイババと遭遇したのは
このときが最初で最後だった。
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サイババも亡くなって
手紙は誰に渡したらいいんだろうか。
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2012年3月22日 (木)

ヒッカドゥワ美女図鑑

ここらで、ちょっとペースを変えて、ヒッカドゥワでスレちがった美女の皆さんにご登場いただきましょう。

まず最初は、私が泊まっていたブルーオーシャン・ヴィラのミカさんです。

ご主人はシリさんといいます。「ボクの名前はお尻のシリです」というくらい日本語は達者。ミカさんがサーフィンに通いつめているうちに知り合い、あぁして、こうして、こうなったという具合で結婚へ至ったのだといいます。

Blue Ocean Villa

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部屋数は8部屋と小規模だから家族的雰囲気でノンビリとくつろげる。

旅行シーズン中は連日満員だが、シーズンオフはどうするかがお二人の課題のようだ。

ブルーオーシャン・ヴィラのスタッフ。

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ヒッカドゥワから南下したゴールという街で見かけた女性。
古い教会でドラマ撮影していた女優さん。

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ゴール街道で出会ったオームづくしの中国人女性。
ネックレス、Tシャツ、バッグ、それに左足のオームタトゥーだ。
ヨガの先生だという。

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愛嬌のある笑顔の少女。

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オームマフラーのフィンランド女性。

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たくましいサーフィン美女。

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ビーチをブーラブラしていると向こうから「オッ!」と思わせる美女がくるのに気がついた。

近づいてくるのを待って「写真を撮らせてくれないか?」とナンパしかけたワケだ。

彼女はニコニコ笑いながら「ダメダメ」という感じ。

「1枚でいいから」と食い下がったのだが、彼女がいうには、自分のダンナがフォトグラファーで他人から写真を撮られるのをイヤがるのだそうだ。そのダンナが近くにいるらしい。

まんざら嫌がっている雰囲気でもない。

まぁ、こちらもナニが何でもというワケでもないから、

少しハナシをした別れ際「チャオ!」と声をかけて、

振り向いたところを1枚撮ったのだが、、、

アラッ・・・・ブレちゃった。

男に声をかけられるのは慣れているイタリア女性だ。

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爺線上のカメラマンとしては
日本だとなかなかこうはいかないが
外国でだったらこんなふうに平気で声をかけたりするのだ。
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2012年3月21日 (水)

ヒッカドゥワのブックリスト

ヒッカドゥワには旅行者が求めるものは何でもある。

ネットカフェもあるしスターバックスも、、、、、、、。

と思ったら、、、

STARBEANSだった。

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なんといっても太陽の光がいちばん嬉しい。

ビーチを埋め尽くすデッキチェア。

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人々が楽しんでいるこんなビーチをリュックサック担いでのホテル探しも、、

ケッコー惨め!
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サーファーのメッカでもある。

それほど大きな波もなく初心者でも楽しめそうだ。

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私が泊まっていたホテルは日本人の奥さんと、スリランカ人のご主人が経営する『ブルーオーシャンビラ』というエコノミーなホテル。日本人客も多いようで、書棚には彼らが残していった本がある。

誰が何の目的でスリランカに持ち込んだのか?
モルモン教の分厚い本もあったりする。

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サーフィンもやらない私はビーチでのオームハンティングに飽きたらただひたすら読書に励む。

君が前の彼氏としたキスの回数なんて俺が3日でぬいてやるぜ。
俺には地球が止まってみえるぜ。
駅の名前を全部言えるようなガキにだけは死んでもなりたくない
刑事コロンボ/歌う死体
砂に書いたラヴ・レター

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容疑者Xの献身
毒猿
男たちのバラード

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アメリカ

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ヒッカドゥワで若い日本人カップルに会った。

かれらは大震災後にインド北部のヴァラナシにいたのだという。レストランで隣のテーブルに大きなカメラを持っている年配の男がいて「これ、マズいからキミたちにやるよ」とキムチの皿をくれたのだという。

せっかくだからと頂いたらやっぱりマズいキムチだったそうだ。

そのカメラマンだという男の人相風体を聞いた私は「その人は藤原新也さんだ!」とすぐに解った。

「そのフジワラさんというのはダレですか?」

「ナニッ!キミたちは藤原新也さんを知らないのか?藤原新也さんは写真家だけど、写真に止まらず宗教から社会批評までその活躍は多岐にわたる人だ。

オレがインドに興味を持ったのも藤原さんの『印度放浪』という処女作を読んだからで、インドを旅することに特別な意味を持たせた哲学者といってもよいだろう。我々の世代には大きな影響を与えた人なんだ。

オレが何千枚インドの写真を撮ろうとも藤原新也さんの撮る1枚の写真の足下にも及びやしないと思っていて、オレにとっては神様のような人だ。

その藤原新也さんの名前も知らずしてヴァラナシにいくとは、、、、

しかもだなぁ、、、

キムチまで御下賜にあずかるとは、、、、

『藤原新也を知らずしてヴァラナシを語るなかれ』

キミたち勉強不足だぞッ!

いつ日本に帰るんだ?

いいか!日本に帰ったら『書行無常/藤原新也/集英社』を即買いなさい!読みなさい!」

余計なお世話とは知りつつ紙ナプキンに藤原新也さんの新刊をメモして渡したら、必ず買います読みますと言っていたけれど、あのカップルは日本に帰っているだろうか、そして、本は買っただろうか。

それにしても、何十冊もの著作がある藤原新也さん、自分のことを知らない若い日本人男女に出会って、「オレって、、、あんがいマイナーなんだなぁ、、、」と、ヴァラナシの裏通りで苦笑いしたかも知れません。

藤原新也さんのシリアスな作品『アメリカ』を読みながらこういう本で気分転換。

ビッグコミック/ゴルゴ13シリーズ。

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ちびマル子ちゃん2。

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ちなみに、これはヒッカドゥワ・ロティ・レストランでとった昼食。
ヌードルスープ+バナナロティ+マンゴーラッシー

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三代目魚武濱田茂夫さんとか
喜多嶋隆さんの本なんて
こんなときでもなければ読むことはなかったぜッ。
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2012年3月20日 (火)

ヒッカドゥワとスオミ

ゴア、コヴァラムビーチとインドのビーチリゾートを紹介したので、リゾートついでにもう一ヶ所、スリランカのヒッカドゥワを紹介いたしましょう。

ヒッカドゥワはスリランカの首都コロンボの南にある。

北部のアヌラダプラという街にいたのだが、連日の雨と寒さで嫌気がさした。ビーチの太陽が恋しくなってバスを乗り継いで一挙に南下したのだ。アヌラダプラを朝9時30分のバスに乗りコロンボ着が午後3時30分。バスを乗り換えヒッカドゥワに着いたのが夜7時30分だったから約10時間オンボロバスに乗っていたことになる。バスに乗るときに「ヒッカドゥワに着いたら教えてくれよ」と運転手に頼んでおいたら、運転手が言う前に周囲の乗客が「ヒッカドゥワ、ヒッカドゥワ」と声をかけてくれた。

バスを降りると、寒いところから来ただけに暖かさが嬉しい。

明かりも少なくて薄暗いから周囲の様子もわからない。バス停で張っていたリキシャに「どこかテキトーなホテルへ行ってくれ」とハナシたら、案内されたホテルは日本人の奥さんとスリランカ人のご主人が経営しているホテルだった。当夜は満室だからというので、明日以降の予約をして紹介されたホテルにバックパックを解く。

じつは、ここもスリランカが国名をセイロンと称していた40年前に来たことがある。民家もまばらだった漁師村のヒッカドゥワの現在だが、メーンストリートのゴール街道はホテル、レストラン、土産物屋が隙間なく立ち並び、ムカシの想い出を探してもカケラすら見つけだせなかったのは当然のハナシだ。

早朝、まだ観光客は寝ている時間帯の浜辺。

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僚船の帰りを待つ漁師。

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砂浜は海亀の産卵場所にもなっていて、
地元の青年がデカイ海亀を海藻でおびき寄せることもできる。
(青年はもちろんチップ目当て)

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これは留置所ではなく酒屋。
仏教国スリランカは飲酒に鷹揚だから地元の人間も観光客も上客だ。
もちろんロシア人にとってウオッカはお茶代わり。
そう、ここヒッカドゥワもイワノフ、ナターシャの天下。

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良質の波を目当てにサーファーが多く訪れる。

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ヨガを楽しむ女性。

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アラビア海に沈む太陽だ。

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ネットカフェでメールチェックを終えてゴール街道を歩いていると、道路の向こうから手招きする二人組の白人青年がいる。

「オレか?何の用だ?」

近寄って訊くと、私の着ているTシャツがイカしているというのだ。このTシャツはコロンボにいたときYMCA前の古着屋で見つけて、デザインが気に入って買ったもの。援助物資の横流しのようなニオイもしたが、たしか100円くらいだったと思う。

彼らはネクタイ柄のそのTシャツが好きだから写真を撮っていいか?というワケだ。私は普段から街の人々に「フォトOK?」とカメラを向けている自称フォトグラファーだから、自分を撮りたいと言われてイヤだ!と断るワケにはいかない。喜んで彼らと記念写真だ。

彼らはフィンランドから来たという。

「フィンランド?

イロんな国を旅行したけれど、

フィンランド人と出会うのは初めてだ!

フィンランド!

ヘルシンキ!

フィンランディア!

シベリウス!

スオミ!」

フィンランドについて知っていることを並べたが、彼らに通じたかはわからない。

私がなぜスオミなどというフィンランドの別称を知っているかというと、かつて熱狂的愛読者だった五木寛之さんの初期作品にこの国名が出てくるのだ。

「私たちの国フィンランドはスオミともいう小国で、ソ連とスゥエーデンの大国に侵略された歴史がある」

小説ではそんな意味の言葉をフィンランド人女性に言わせている。

それこそ40年前に読んだ小説だからこの本のタイトルは忘れてしまった。タイトルは忘れてしまったが、とっさに若い頃の読書体験で刷り込まれた言葉が出てきたりするところをみると、私の思考は五木寛之さんの作品で形成されたような気もするのだ。

「この写真はスリランカのヒッカドゥワというビーチにいた日本人だぜ!」

フィンランドに帰国した彼らはそんなふうに言いながら、仲間に私の写真を見せて面白がっているかもしれない。

私もその写真をアップしようではないか。

まさか
こんなTシャツがキッカケで
フィンランド人青年と
写真を撮りあうとは思わなかったゼ。

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これまで自分の素顔を出すことは避けていたが
顏を隠すのはフェアじゃないな。
なぜなら、
私は他人の写真を平気でサイトにアップしているワケだから。
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そんなふうに思うようになった。


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2012年3月19日 (月)

コバラムビーチのオーム

インドにはゴアと共に有名なビーチリゾートにコヴァラムビーチ(Kovalam Beach)がある。

コヴァラムビーチは南インドのアラビア海に面したケララ州にある。私はインド最南端カニヤクマーリからケララ州の州都トリヴァンドラムに入り、トリヴァンドラムのバス停から2−30分くらいだったと思う。以前トリヴァンドラムに来たときは聞いたことのない地名で通り過ぎてしまったのだが、今では観光に力を入れているケララ州政府によって、リゾート地として開発されたようだ。

海岸線はゴアに比べて短いがちょうど入り江になっていて波はほとんどなく、やはりここも、外国人旅行者だけでなくインド人観光客が大挙押し掛けるリゾート地だ。ビーチ沿いにレストランやホテルが立ち並び、ホテルのグレードもパックツアー客対応の高級ホテルから、我々のようなバックパッカー向けの安ホテルと松竹梅の陣容だ。

夕方になるとどこからともなく湧いてくるインド人観光客。

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このオバさん、怖い顔をしているようだが気の良い果物売りだ。

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私は『旅にあってもオームを忘れず』だから、

今回はコヴァラムビーチのオームを何枚か見てもらいましょう。

記事の流れからして
まずはロシア人のオームだ。

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同じロシア青年の左腕を見ると、、、、、。
わかるヒトには解るオームだ。

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ビーチを散歩する男性ペンダントのオーム。
白いシャツに銀のペンダントでは写りづらいだろうと
ワザワザ緑色のポシェットをあててくれた。

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何が嬉しいのか大笑いしているアイルランド人カップル。

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砂浜にメッセージを描いているカップル(フランス人)

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このフランス人
私はオームコレクターだと自己紹介すると
こんなオームも見せてくれたのだ。

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インドだからオームがあるのは当たり前
私のカメラはオームの画像でパンパンにふくれあがっているのだ。
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いつかこのオームたちを
一挙に公開したいものだと思っている。


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2012年3月18日 (日)

ゴアでコサックダンスを

今回の旅は南インドを中心に回ろうと計画したのだが、この南インドは1973年にひと通りのところは回っていて、ゴアも40年ぶりの再訪ということになる。40年前のゴア・カラングートビーチは旅行者相手の数軒のレストランと民宿があるだけのひなびた漁師村だった。

「クリスマスはゴアだぜ!」というのがヒッピーの合い言葉みたいになっていて、年末近くになるとこの漁師村を目指し、私のようなヒッピーまがいもネパールのカトマンズから一挙に南下したというワケだ。

約500年にわたってポルトガル領だったゴアが独立したのが1961年だから、あの当時のゴアは独立してから12年くらいしか経っていないことになる。州全体がポルトガル人のもたらしたキリスト教の影響下にあったから、「ここもインドなの?」と思えるほど他の州とは生活習慣が異なって、卑近な例でいえば酒類が自由に飲めて、女性はスカート姿が多かったりしたのだ。

住民はフレンドリーで酒が飲めて、そしてキレイなビーチがあって上質のグラースも手に入るとなれば必然的に西洋人旅行者が集まってくる。とくにインドのハードな旅でボロボロになった旅行者が羽根を休めるには絶好の場所だったのだ。

さらにゴアが有名になったのは男も女もオールヌードで遊んでいたことにある。水着姿が恥ずかしいくらい皆が裸だった。だからゴアで何週間か過ごすと水着の跡なんかなくなり、上から下、裏から表までコンガリトーストというワケだ。

オールヌードはいいんだが、しかし、しかしだなぁ、、、東洋の果てから流れて来た似非ヒッピーとしては、、、どうしても比べてしまって、、、ちょっと、その〜、、、コンプレックスも感じてたワケよ。

そんなふうに、

かつてのゴアは旅行者も少なく、好き放題遊べた漁師村だったのだが、40年後に訪れたゴアは、カラングートから北のバガまでの10数キロのビーチはレストランとゲストハウスで完全につながってしまった。色とりどりのビーチパラソルの下は白人たちが埋め、加えて大挙押し掛けるようになったインド人観光客のために、パラセイリングやバナナボートの設備まで出現している。それほどインドも経済発展して旅行を楽しめる層が増えたということになるだろう。もちろんオールヌードは禁止だ。

このように、

かつての漁師村は一大リゾート地に発展していたのだ。

インド人の観光客も驚いたが、もっと驚いたのは白人旅行者の大半はロシア人のようだということ。1970年代といえば当然ソビエト連邦の時代なのだが、あの当時は出会うこともなかったロシア人観光客がアッチコッチでウォッカのビンを片手にスパシーパ。ピロシキ食べながらオオキニハラショー!ロシア語が飛び交い、ロシア語の看板が溢れている。

40年前と同じ景色が維持されているとは思わなかったが、あまりの変貌ぶりにこっちもついついコサックダンスのステップしたりするワケだ。

旧ソ連からゴルバチョフ〜エリツィンにいたる社会混乱を安定させたのがプーチンで、プーチンの施策によって大量に生まれた中産階級層が国内景気を活性化させ、国外旅行ブームが起きているといわれます。

そうだよなぁ、ロシア成立の頃はルーブルがまったく信用されなくて「物々交換の時代へと戻った」「北方4島を返還する見返りに日本から援助を受けようではないか」などというロシアの困窮を伝える報道を何度も見たことがあって、まんざらデマでもなさそうだと思ったこともある。

そのロシアが今では外国のリゾート地を占領するほどの観光客を送り出せるようになったのだ。

ゴアやコバラムビーチなどリゾート地にはカシミールあたりから来た土産物屋が多く出店している。品揃えを見るとTシャツや仏具などの一般的な土産物以上に、ジャケット、ブーツ、帽子などの毛皮商品が大きなスペースを占めている。

「こんな猛暑の南国でいったい誰がこんな防寒具を買うのだろう?」

興味をもって訊いてみたら、ロシア人観光客がお土産に買うのだとの答え。それだけロシア人が多いんだということにナットク。なるほどなるほど、利に聡いカシミール商人が売れる見込みのない商品を仕入れるワケないわなぁ

今年のロシア大統領選挙では、強権的プーチンに対する批判票も露呈し、プーチン体制も盤石ではなさそうだと報道されていたが、いちど自由の味を知ってしまったロシア人がいまさらソ連体制へと戻るワケにもいかんだろう。

『敵の敵は味方』という大原則があるように、インドとロシアは共通の敵中国への対抗心からもともと友好関係にあったのだが、印露間がこれほどになっているとは。

思いがけずもインドのゴアで南国の陽光をエンジョイするロシア人の実体を見てしまったのだ。

それではゴアの現在の様子を見てもらいましょうか。

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観光客が来ようが来まいが
漁に出るからこそ漁師だ

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早朝のビーチで瞑想を楽しむ

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ビーチもインド人観光客で賑わってきた
このインド人たちはどこから湧いてきたんだ?と思えるくらい

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ビーチをウツムキ加減に歩くパンダ犬

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教会のミサ
小ザッパリした格好でミサにのぞむ

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ゴアでも牛は神様だ

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シルジサイ・テンプルのバジャン

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かつて、
先進国の落ちこぼれが遊んだゴアへ40年後に行ってみれば
いまや先進国の影は薄くなり
発展途上国
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BRICsのR
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羽根を伸ばしていたのだ。
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2012年3月17日 (土)

ゴアのイギリス人

ゴアについては改めてレポートするつもりだが、ゴアのロシアネーちゃんが出たついでにゴアの画像をアップしましょう。

早朝のゴア、散歩やジョギングを楽しむ人々の中で、ハデなシャツ着た犬連れの白人が目についた。手には掃除機のようなものを持っている。ハテ、ヤツはいったいナニ屋だろう?と思い追跡すると、、、。

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コレですよ。

地中の金属に反応するとヘッドフォンを通じてピーピーという音が聞こえるんだそうだ。

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「きょうは何か見つかった?」

声をかけると、

よくぞ訊いてくれたと、嬉しそうな表情をして見せてくれたのが、ケータイ電話のバッテリー1個だった。

後日訊いたときはポケットから数枚のコインを出して見せてくれたが、このイギリス人、特にお金目的でもないことは確かだ。

それにしても、白人というのは単調な生活の中にイロンな楽しみを作りだすものだと感心してしまうではないか。

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ところで、このオッチャン、、、

何で両手を突き出しているかというと、逮捕され手錠をかけられようとしているワケでもなく、じつは両手親指の付け根のところにオームタトゥーがあって、私のリクエストに応じて写真を撮りやすいように見せてくれているのだ。。

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『オームハンター』としては
日光浴するロシアのネーちゃん肩口のオームだけでなく
イギリスのオッチャンとの短いセッションの中からも
オームを発見してしまうということを
言いたいワケよ。
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2012年3月15日 (木)

ロシアへ愛をこめて

お茶の水の健保組合診療所で健康診断を受けたあと、靖国通りを時間つぶしにブラブラ歩いていたらかつての上司にバッタリ出あってしまった。会社を辞めてから1年半ほどになるが、この間会社関係者とは没交渉だった。「久しぶりだね〜、ちょっとお茶でもどう」と定番の言葉で誘われ喫茶店に入ったワケだ。

重役として第一線に立っている元上司にその後の会社の状況を聞かされても、私には辞めた会社のことなどにはほとんど興味がないのだが、、、。

「インドへ行ってたの?3ヵ月も?アンタは元気でいいなぁ、、、」

元上司のそんな言葉から始まって聞かされたハナシにはちょっとビックリした。

私が勤務していたのは社員40人ほどの会社だったのだが、私が辞めた後の一年半ほどの間、4人の社員が重病で倒れ長期入院したというのだ。2人は療養を経て職場復帰したものの要観察状態。1人は現在も自宅療養中。1人は職場復帰不可能で退社。

私が在職中には患っている兆候など見られなかった元同僚の、もちろん私よりズ〜ッと若い彼らの顏が目に浮かぶ。

この不況の中、退職者が出ても補充の人員を採用するだけの余裕もなく、現有勢力でやりくりするしかない。社員もそのことを理解して協力しあって仕事を続けてくれてるのがアリガタイ、という元上司の決意表明を聞かされ、

   「身体だけは気をつけようじゃないか」

お互いに励ましあって別れたワケだ。

そうだよなぁ、いくらお金が有ったって、健康を損ねたんじゃなんにもならんもんなぁ。

私も自覚症状はないだけで年相応にガタがきてるんだろう。それでもこうしてアッチャコッチャ出歩けて、各地でオームに遭遇できるだけでも、感謝感謝感謝また感謝だと改めて実感した日だった。

カラングート・ビーチ/ゴア
日光浴を楽しむロシアのネーちゃん。
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右腕のオームタトゥーに注目。

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健康であればこそ
こういうビキニのネーちゃんと出会って
目の保養をする余裕があるというものだゼッ。

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2012年3月13日 (火)

ビックリしたな〜モ〜!

インドから帰ってきて、税金の申告やら、細々した支払いやら、写真展の打ち合わせやらモロモロの用事を済ませてからお茶の水にある健保組合の診療所へ。

以前の記事にも書いたように、私は初期の糖尿病と診断され、これ以上悪化しないようにということで定期的に検査を受けているのだ。もちろん旅行中も処方された薬を飲んでいた。

尿検査血液検査体重計測など一般的な検査項目を受けるのだが、体重計測のとき看護士が「だいぶ体重が減っています」という。

「厳しい旅行をして帰ったばかりですから減ったかもしれませんネ〜。何キロくらい減ってますか?」と私。

看護士「13キロくらい減ってます」

私「ナニッ?13キロ?・・・ちょっと〜体重計故障してませんか?」

旅行で痩せただろうということは想像つくけれど、13キロ減ということはないだろう。

もう一度計り直したら「スミマセン、、、ハカリ見間違えました、、、13キロじゃなくって、3キロほど減ってます。スミマセン」と看護士は平謝りだ。

  ビックリしたな〜モ〜!

  古〜いギャグで年齢がわかるだろうが、

  故・南伸助さん、、、知ってますか?

とにかく3キロ減だったら、だいたいそんなモンだろうと納得。

医師からは血糖値がだいぶ下がっていて、さらに自己管理をするようにと誉められたりしたワケだ。別に自己管理を徹底したために体重が減ったり血糖値が下がったワケでもなく、ハードな旅を続けた結果がこの数値だ。やはりインドの旅はキツかったんだなぁということを改めて実感。

「センセイ、インドカレー食べてれば糖尿病は治りますかネ〜」

「・・・・・・」

検査のため朝メシ抜きだったのでお腹がすいた。さて、昼メシはナニを食べようかとイロイロ考えて(B級グルメだから大したレパートリーはありません)、久しぶりにお茶の水に来たんだからアレだなぁ。

お茶の水すずらん通り
キッチン南海のカツカレーだ。

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こういうカレーを食べるとルーツはインドでも
インドカレーとは似て非なるものとつくづく思うのだ。

この日は、旅行中に金具が折れた義歯の加工のために、歯医者の予約も入れておいたのだが、“生涯バックパッカー”などとホザイてもだナァ、、、、、糖尿病の心配だの入れ歯の心配だのと、年相応のあまりカッコ良くないバックパッカーだゼッ!

チャンチャン!

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2012年3月11日 (日)

インドへ行ってきた

インドへ行ってきた。

連日30-35℃のインドから7−10℃の東京だから正に『暑い国から帰ってきたスパイ』だ。

押し入れから湯たんぽ引っぱり出してしのいでいる。

このサイトは意外にも『オーム』をキーワードにして訪問するひとも多いようで、前回のバリ・レポートもオーム写真で始めたので今回のインド・リポートもオーム写真から始めることにいたしましょう。

毎日毎日カレーに攻められて3ヵ月。身体が黄色くなったんじゃないか?と思えるほどだ。いくらカレー好きといってもいい加減飽きてきた。やっとカレーから解放される。帰ったら讃岐うどんを食べよう、ラーメン食べようとヨダレたらしながら、ムカシのボンベイ、現在のムンバイ空港へとたどり着いたワケだ。手元に残っているインドルピーは150ルピーほどだ。このお金でインド最後の食事をと空港ターミナルを徘徊すれば、、、オー!カーネル・サンダース大佐!

メニューをチェックすれば135ルピーで2ピースのフライドチキンが食べられる勘定。

ムンバイ空港のケンタッキーフライドチキン

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「生きてて良かった!」

コロモの厚さといい世界標準の味を楽しんでいると、、、、

「アッ!オームだ!!!」

ケンタの前をオームマーク入りTシャツ着た白人カップルが通り過ぎていった。

あわてて、脂でベトベトの両手をペーパーナプキンで拭きながら追いかけ、後ろから呼び止めて撮った写真がコレだ。

ムンバイ空港のオーム

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訊けば、ブリティッシュ・エアウエイズでこれからロンドンに飛ぶのだといいます。

「ハバナイストリップ!」

厚くお礼を言い、ケンタの席に戻り食べ残したチキンを再び貪り食ったワケだ。

前回のバリの最後のオームもデンパサール空港で出会ったオーストラリア女性のオームだったけれど、あのときと状況は同じだ。

私の飛行機はムンバイ→バンコック→羽田のジェット・エア・ウエイズだったのだが、リコンファームもしないまま空港へ直行しても問題なかったから、便利な時代になったものだ。

早めに搭乗しシートベルトも締めて離陸を待っていたのだが、、、、。

「アッ!オームだ!!!」

さっき空港ターミナルで出会ったイギリス人夫婦がインド最後のオームだと思ったら、オームTシャツ着た白人青年が飛行機に乗り込んで来やがった。乗客が1/3ていどしか搭乗していない状況の中で、なぜか私は・・・「きっとヤツはオレのトナリの席に座る」と確信してこの青年を見ていたのだが、そうしたら、ホッ!本当に私の右隣に座りやがったゼッ!

彼はカナダ人だそうで、これからタイのナントカというビーチ(何回名前を訊いても解らなかった)へ遊びに行くのだといいます。日本に行ったこともあるそうで、キチジョージが楽しかった。サクラがキレイだった。トットリで英語の先生をしている友人を訪ねたのだが、スシがあんなに美味しいものだとは思わなかった、などなど。年齢は親子ほど離れているけれど、お互いバックパッカー同士の会話は同じようなものだ。

このあたりまでは私の英語力でもなんとか成立するのだが、テーマが「FUKUSHIMA」になると私では対応できない。会話は少なくなり、機内食をお代わりする彼を薄目で見ながら、徐々にタヌキ寝入りモードへと入っていった。

タイ時間午後7時ころにバンコック到着。

「ハバナイストリップ!」

私はトランジットで左へ、彼は右手のイミグレへと向って行った。

インドだからオームマークは特に珍しいものでもないのだが、最後の最後にこんな出会いも用意されていたのだ。ダレかは知らないが、なかなかアジな演出をするもんだゼッ!

それでは、そのカナダ青年のオームを見ていただきましょう。

インド最後のオーム

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旅の先々で、
話題が「TUNAMI」や「FUKUSHIMA」に及ぶこともがあったが
上手に説明できないもどかしさを痛感した今回のインド旅行だった。

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