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2010年1月30日 (土)

ガパリビーチのスライドショー/ミャンマー

夜中に目が覚めた。

波の音が近くなっているような気がして外に出てみると、満潮らしく20m幅くらいあった砂浜が5mくらいに狭まり、昼に遊んだ岩場も波に隠れていた。

ここはヤンゴンから飛行機で約1時間、タンドウエという街からさらにバスで20分、ガパリビーチというリゾート地だ。ヤンゴンの旅行代理店で「ミャンマーで最高のビーチだ」と教えてもらったのがこのガパリビーチ。『地球の歩き方/ミャンマー編』に載っていないのもオモシロそうだ!

ミャンマー旅行の最後はビーチで優雅に締めようというバックパッカーらしからぬ発想で外国人観光客向けのビーチリゾートを奢ったのだ。

その結果は?

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朝早く浜に下りて漁師の船が戻ってくるのを待って漁を確認したあと、ユックリと朝飯を食べる。浜辺のデッキチェアに横っころがって身体を焼きながら本を読み、飽きたら遠浅の海で泳いだり、時折現れるバナナ売りや貝殻のアクセサリー売りを冷やかしたり昼寝したり。また、浜辺の端から端まで散歩したりしているうちに夜になる。

そして朝になり漁のことが気になって浜に出て戻ってくる漁船を待つ。

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ひとりYouTube

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ただボーッとしていただけのガパリビーチ3泊4日が
どんな由緒あるパゴダや仏様よりも
想い出になっているのが不思議だ。
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なるほど
こんなふうに何もしないのも旅なんだな。

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2010年1月28日 (木)

ミャンマーの仏様

ミャンマー(ビルマ)に来たからには仏様のことも書かにゃならんだろうと、パソコンの画像フォルダー開けば、金色の仏様やパゴダがヤマほどある。しかし、どうも印象が薄い。一応ガイドブックに載っている名所はだいたい見たが、元々東南アジアのギンギラギンのホトケさんにはそれほどの関心がないタチなので、どれが何という仏様でどんな由来があるのか説明する自信がないのだ。

ミャンマー旅行記だから『地球の歩き方』を借りて少しは画像をアップしておきましょう。

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朝日を浴びるシュエダゴォン・パヤー(ヤンゴン)

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チャッターヂー・パヤー(ヤンゴン)

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マハムニ・パヤー(マンダレー)

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ビャーディベー・パヤー(マンダレー)

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ヒンズーテンプル(マンダレー)

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そのヒンズーテンプル(マンダレー)でアラティを受ける。

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マンダレーからバガンへの約10時間の船旅。

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名前を忘れた仏様(バガン)

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祈りを捧げる女性(バガン)

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シュエサンド・バヤー(バガン)
夕日を見るためにどこからともなく現れた観光客。
傾斜45度の階段を“親知らず子知らずの
自己責任”状態で上り下りするのだ。

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夕焼けのパゴダ群(バガン)

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ガーペー僧院(インレー湖)
ネコの輪くぐり

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これがケッコー楽しい。

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チャイティヨーのゴールデンロック。
人気の聖地らしく参拝客が絶えない。

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確かに崩れ落ちそうで落ちない!
テッペンの小さなパゴダに納められているお釈迦さまの聖髪が
バランスを保っているという説もあるそうだ。

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ミャッ・タ・リャウン寝仏(バゴー)

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ヒンズー寺院(ヤンゴン)

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シュエダゴォン・パヤー(ヤンゴン)
一晩中ライトアップされている。

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他人様の信仰に
とやかくいうつもりはないが
やはり私は
神秘的な表情を含んだ
日本の仏様の方が好きです。

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2010年1月26日 (火)

私はミャンマー人です

ヤンゴンで知り合ったミャンマー人によれば、ミャンマーでは主要7民族との和平協定が成立して、残りの1民族とは交渉中だとのことだった。その他にも少数民族は多数いて、騒動の起きそうな地区への旅行者の立ち入りは制限されているらしい。たぶん多民族を軍事政権というタガで強制的にまとめているというのがミャンマーの実態なのだろう。

もし、「民主化」の名の下にタガを外した場合には、世界の各地で見られる、民族間の争いに宗教間の争いも加わった混乱に陥りそうな気がする。軍事政権を容認するつもりはないが、見た目平穏に見える現状に接するとスーチーさん率いるNLDに統治能力があるんだろうか?という疑問も湧いてきたのだ。

他民族国家だから街を歩いていると、マレー系、中国系、インド系など多様な顔立ちの人たちが見られ、日本人と同じ顔の人もいます。

中にはこんな人も。


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インレー湖の土産物屋の一角で機織りしながら生計をたてている首長族の家族です。これらの人々がごくフツーに共存しているように見られるのは私の贔屓目だろうか。

物不足という予想を裏切って各地の市場には食料品があふれていて、日本では高級品にあたるエビやカニもふんだんにある。じつは、「エビは外貨獲得のため輸出に回されるらしくレストランにはなかった」というようなサイトの書き込みを読んでいたので、市場の賑わいは意外だったのだ。

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ヤンゴンで屋台のオバさんを冷やかし子供をからかったりしながら市場を進むと、、、。

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腸詰めの腸がぶら下がっている店がある。興味深く見ていると奥の方から「コンニチハ」という日本語とともに愛想よい中国顔が出てきた。

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「日本語はどこで習ったの?あなたは中国人ですか?」と訊くと、「私はミャンマー人です」の答え。お父さんは香港の出身で戦争中日本軍の船に乗っていたとのこと。旧ビルマで終戦になり、そのまま居着いて結婚し自分が生まれた。だから「自分はミャンマー人だ」ということのようだ。思いがけずも、ビルマと日本軍との関わりを知ることになった、市場の散策でした。

ミャンマー中部にインレー湖という風光明媚な観光地があります。その基地となるニャウンシュエへは空港のあるヘーホーからタクシーで約1時間。ニャウンシュエ自体には特に興味あるものはなく、ニャウンシュエの街を拠点にしてインレー湖周遊に出かけ、少数民族のマーケットやガーペー僧院のネコの輪くぐりを見学したりすることになります。

そのニャウンシュエを歩いていると店の奥から日本語で呼び止められた。外国で「コンニチハ〜」などと声を掛けて来るのは大体土産物屋か両替屋、それにポン引きと相場が決まっているから身構えたが、そのテの人間ではなさそうだ。

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かなりしっかりした日本語を喋るので「どこで習ったの?」と訊くとヤンゴンの日本語学校で勉強したことがあったそうだ。少なくとも私の英語力よりは達者な日本語だ。親族がヤンゴンのボジョレーマーケットで宝石屋を経営していて日本人客を相手にして儲けようという意図があったのだろう。この店はミャンマー人奥さんの実家だそうで、奥さんにつきあっての里帰り中だとのこと。モーターオイルやらの工業製品を扱っているところから、かなりの資産家だとみた。

インレーの話などをしながら「あんたはシークか?」と訊くと「モスレムだ」という。

「ということは、、、モスレムのインド人だな?」

「ノーノーノー!私はモスレムのミャンマー人です」

祖父も父もインド人だけど、自分はミャンマーで生まれたからミャンマー人だということのようだ。

確かに!そう言われればそうだ。間違いない。

落ちそうで落ちない!巨大な石が鎮座増しますゴールデンロックのあるチャイティヨーからバゴーに辿り着き、ヤンゴン行きのバスを予約してブラブラ歩いていると、やはり日本語で声をかけられた。バイクタクシーの運転手で街のガイドをしてやるという。日本語は誰から習った?と訊くと、日本軍で働いていたお父さんから教えてもらったと言いやがる。

どうもうさん臭い匂いがするヤツだと思ったが、かつて日本軍のために働いたことのあるビルマ人の子供ならまんざら縁がないわけでもない、、、と思い、2時間のガイドを頼んだ。

ボロボロのバイクは20分も走ると動かなくなり、さらに20分も走ると再び動かなくなった。ガソリン切れたから1000チャット貸してくれ、、、必ず返すから信じてくれ。このバイクを修理に出して、友達から別のバイクを借りてくるからここで待っててくれ。

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“ホトケのエアジン”と言われるほど温厚な私もさすがに切れた!

もういい!別のバイクでバス停に戻る!

うさん臭いと思ったタクシードライバーはホントにうさん臭かった。

バゴーのバス停に戻ると、さっきヤンゴン行きのバスチケットを予約した娘さんが出てきて「あら?もう帰ってきたの?」という顏をする。ミャンマーではバス停の周囲に旅行代理店を兼ねた数軒のブッキングオフィスがあって、チケットはだいたいこの間口2間ほどの店で買うシステムのようだ。

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バスが出発するまでのしばらくのあいだ世間話をしていて解ったことは、彼女がシーク教徒の娘だということ。シークだと解るとこっちにもコロシ文句がある。

「グル・ナーナク!

オレはアムリッツアのゴールデンテンプルに行ったことがあるぜ〜い。

1974年のことだ。

あんたはまだ生まれてないだろう」

これでだいたいシークとの人間関係は成立するから、彼女はお茶を出してくれたり、家族の話になるとケイタイ取り出して子供の写真を見せてくれたりする。

「あなた結婚してたんだ!ハズバンドは何してるの」

「彼はあそこにいるわよ〜」

あ〜、そうだったのか!さっきから事務所を出入りしているハンサムな若い男がダンナさんだったのか。

「彼は仏教徒のミャンマー人でしょ!あなたはシークのインド人でしょ!その二人が結婚することに問題はないの?」

「彼はミャンマー人。私もミャンマー人です。別に問題はありませんよ〜。」

何を変なことを言うの?という顔をされて、そろそろバスの出発時間だ。

「あなたの旅が無事終わりますように。これはシークのお護りです」

そう言いながら人妻のシーク教徒は赤い紐を首にかけてくれた。

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彼女から買ったチケットは外国人旅行者向けのバスではない。
現地人向けの、こんな車が走れるの?というようなボロボロの車体。
道ばたで手を挙げる人がいれば停車する乗り合いバスだ。
そんなバスに揺られ
2009年12月31日の夕方ヤンゴンに到着した。
大晦日も関係なくヤンゴンはいつもと同じで
平常と変わりはなかった。

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2010年1月24日 (日)

橋の上の「ダボンOK?」ミャンマー

朝方ミャンマーの街を歩いているとよく見かけるのが坊さんによる托鉢風景。

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こうして得た食物は坊さんの1日2回の食事になるそうだ。

その坊さんの食事風景を公開して観光客を集めているのが、マンダレー郊外アマラプラという街のマハーガンダーヨン僧院。朝10時半頃から1000人近い修行僧が広間に集まって食事をとる風景が見られる。

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こんなふうに少年僧が集まる部屋もある。

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食事時に合わせて観光客がバスで集まってきてテーブル傍まで入り込み、遠慮なくバシャバシャ写真撮ったりするワケだから坊さん連にとっては迷惑なハナシだ。私もそのうちの1人だったけれど。

端っこにライトに照らされてずいぶん明るい一角があると思ったら、外国からの取材なのかテレビカメラが入って高僧の食事風景を撮影中のようだった。フツーの坊さんと高僧ではメニューが違うと見た。お釈迦さんの前では高僧も修行僧もましてや衆生さえも平等ではないのか?とも思うのだが、マッ、いいか。

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坊さんの食事が終わると観光客は潮が引くように消え去ってしまった。

ちなみに托鉢では男性僧侶は食物を集めて、尼僧は現金だけを集めるのだといいます。

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このアマラプラにはマハーガンダーヨン僧院の他にもうひとつ名所があって、それは、160年前にチーク材で作られた長さ1.2kmのウー・ベイン橋のこと。この橋は「世界最長木造橋」としてギネスブックにも載っているらしい。

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湖に架かる橋なのだが雨季には橋スレスレまで水をたたえるらしい。乾期のこの時期は水も引き、表れた地面を耕作地にして牛が鍬を引くのどかな景色が橋の両側に広がる。「ギネス登録」の名物といえども人々の生活に欠かせない橋のようで、こんなふうに生活物資を運ぶ姿もみられる。

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私がミャンマーで憶えた言葉は

「ミンガラパー!」こんにちは!

「ダボン」写真

の2つだけ。

橋を渡る人々を「ミンガラパー!ダボンOK?」の2語を駆使して撮った画像がありますから見てもらいましょうか(ちなみに旅行者の持っているカメラの8割はキャノンとニコンと見た)。ミャンマー人てどんな顏をしてるんだろう?と思ってる人もいるかもしれませんが、ミャンマー人ってこんな顏をしているんです。

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女性が顏に塗っているのは“タナカ”という陽焼け止めです。その“タナカ”もハッパの模様にしたりしてなかなか遊びゴコロもあります。

皆さん良い表情しているでしょ。

橋の途中に屋根付きの休憩所があって、そこで店開きしていた占い師の父ッツアン。

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見るほうも見られるほうもかなり真剣な表情だ。

女性客を見終えた父ッツアンと私の目が合って、気がついたときには私も左手握られていたというワケだ。父ッツアンの見立てでは私の人生は年をとるとともに上昇していくとのこと。特に掌にあるホクロに注目して「このホクロは生涯お金に困らない」とホメちぎり、さらに健康線運命線とも申し分なく「死ぬまで生きる」から心配いらないそうだ。

お互いにメチャクチャ英語でのセッションだったけど、とにかく悲観的なことは言っていないようだと、気分を良くして見料1000チャット(1ドル)をはずんでしまった。

「ダボンOK?」
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私のリクエストに
占い師の父ッツアンは
私からせしめた1000チャット札をかざして
ポーズをとりやがったぜッ。
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踏み出すたびに
足下の板がまるで木琴を叩くような音をたてる
マンダレー近郊ウー・ベイン橋のひとときでした。

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2010年1月22日 (金)

ミャンマーでこんなものを喰っていた(その2)

前章では軍事政権下でも西洋文化は徐々に進出していますよ〜ということを書いたワケだが、やはりミャンマーの人にはこんな食べ物が一番なのでしょう。

どこでもよく見られる揚げパンを作る景色です。
(ヤンゴンの路上で)


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日本式に言えば串焼きということになるのかな。
好みの串刺し臓物を選んでセルフサービスで揚げる。
代金は串の本数で計算する。
(ヤンゴンの路上の屋台)

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エビかき揚げ。
この脂でテカっている色は芸術的だ。
(チャイティヨーに向かっていたときの茶店で)

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クレープのようなオヤツ。
(マンダレーの路上にて)

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日本の銭湯にあるような小さな椅子に座って
クレープをつまみながらおしゃべりを楽しむ。
(マンダレーにて)

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これはビュッフェ形式のお店で
好きなものを指差すと小鉢に盛ってテーブルまで運んでくれる。
サービスの野菜盛り合わせが嬉しい。
(ヤンゴンにて)

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トツゼンだけど!

リリー・フランキーさんがなんでこんなところにいるの?

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モチロン!

リリーさんではなくって、、、、、、。

この人はヤンゴンの『大阪ラーメン』の社長さんなのです。

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社長さんのハナシによれば、観光旅行のつもりで日本に行ったら居心地が良くってそのまんま滞在10数年。ギャンブルにのめり込みながらもラーメン屋で働いて料理法も言葉もマスター、そして故郷のヤンゴンに戻ってきてラーメン屋を開いたということらしい。

だからメニューには日本のそこらの中華屋にある料理はだいたい並んでいるのだ。

大阪ラーメンの味噌ラーメン。
(ヤンゴンにて)

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ミャンマーで食べたもので一番おいしかったのが
ミャンマー人の作った味噌ラーメンだった。
なんだかんだ言っても
味噌醤油から離れられない日本人だというのが情けない。

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2010年1月20日 (水)

ミャンマーでこんなものを喰っていた

アメリカとその同盟国の経済制裁により経済困窮状態にあるといわれるミャンマー。たしかに道路や電力供給などのインフラは未整備なところが多いが、食料や衣類などの人々の生活に必要な物資は充分に揃っているのは意外だった。けっきょく、経済制裁などで不便に感じているのはほんの少数の特権階級だけで、大多数の庶民は「無ければ無い」でそれを当然のこととして別になんとも思っちゃいないんではないだろうか。

経済制裁下であってもジーンズをズリ下げて半ケツの若者も歩いていいれば、総金髪に染めた女性だって見かけた。CD屋にはマイケル・ジャクソンのCDもあったから、文化流入の裏ルートは確立されているようだ。

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CD屋のお嬢さんに、左手で股間を押さえ「ホー!」と奇声発しながら右手で指差すとウケていたから、マイケルのDVDも見たことがあるらしい。このようにコミュニケーションをとってから「写真を撮らせて」とカメラを向けると、恥ずかしがって逃げた美人店員の画像がコレ。


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さて、

ミャンマーで私がいちばん食べていたのはチャーハンだった。油ぎったマンミャー料理よりは、食べ慣れたチャーハンや焼きそばの中華系になってしまう。

ミャンマーのホテルはだいたい朝飯付きで
こんな組み合わせが一般的。
左側の小鉢がモヒンガーと呼ばれる
春雨状の麺類でミャンマーの代表的朝食。

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上の朝食画像はチョッと上品そうな雰囲気がするけれど
下の朝食画像はトーストと卵の組み合わせは同じだが場末の感じ。
宿代の差がこんなところに表れます。

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ガパリビーチではこんなハンバーガーを食べた。

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そして、こんなスパゲティだって大丈夫。

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スパゲティやピザの店もケッコー発達していて
これはニャウンシュエの『スター・フラワー』という店のピザ。

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夫婦でやっている店で
キッチンの奥まで案内して
ピザを焼く窯を見せてくれたり
パスタを作っているところを見せてくれたりの
なかなかの商売熱心。

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タンドウエの村で
シーフードオムレツをオーダーしたら
こんなのが出てきやがった。
その大きさにビックリ。
けっきょくエビだのイカだの中の具だけを拾い出して食べた。

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これはヤンゴンのオシャレなカフェのチキンサンドイッチ。

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これはタンドウエの村のレストランで食べたシーフードヌードルスープ。
食べているあいだ、調理人が心配そうに見ているから
「美味しいよ!」というポーズを見せると
安心した様に奥に引っ込んでいった。
お世辞抜きで旨かった海鮮ラーメンだ。

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マクドナルドの看板こそないが
ハンバーガーだって食べられるし
ピザハットまがい
ミスタードーナッツまがいの店もあって
観光客だけでなく地元の人だって
ごくフツーに利用しているのを見られます。
もっとも一般的ミャンマー人にとっては
かなり高額な食事にはなるだろうけれど。

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2010年1月18日 (月)

ミャンマーのホテル

「ミャンマーに行ってきた」と言うと、だいたい「大丈夫だった?」という反応を示された。それほど、ミャンマーは危険度の高い国だと刷り込まれているようだ。“危険度”というのは街にはカービン銃持った兵隊が待ち構えていて、ときおり銃声が聞こえて、なにかあればすぐに壁に向ってホールドアップさせられてボディチェック・・・・・軍事政権イコールこんなイメージらしい。

このような悪イメージからか日本人旅行者は少なく、2週間の滞在中日本人と解って話をしたのは10人程度だろうか。だいたい一人か少人数で、観光地で見ら れる旗立てた添乗員に引率される日本人パックツアーは皆無であった。全世界を闊歩する日本人をもってしてもまだまだ秘境の部類に入るようだ。

実際には、郊外の空港へ向っているとき警官を乗せたジープが10台くらい街の中心へゆっくり走るのを見た程度。兵隊の姿を見ることもなく、拍子抜けするほど平穏で検閲を受けることもなかった。もちろん見えない所でどのような締め付けが行われているのかは解らない。

観光客が一番多い国はドイツとみた。どこに行っても濁音言葉が鳴り響いていたのだ。それにしても、ゲルマン民族というのはタフと好奇心の塊のようで、ケッコーな年齢と見受けられるチャンジー/チャンバーがカップルで安ホテルを拠点に精力的に動き回っているのにはビックリする。もっとも私だって負けていないが。

その私は「生涯バックパッカー」などと標榜しながらも、っぱり年相応に日和ってきて、数ドルの安いホテルを探し求めてウロウロするよりは簡単に妥協するようになった。窓付き部屋と窓なし部屋の差が5ドルだったら窓付き部屋を選ぶし、水シャワーよりはホットシャワー、できればバスタブつきで極楽を味わいたい。タクシーだって使うし、固い椅子のオンボロバスで10数時間の移動よりは飛行機を選んだりと、ずいぶん軟弱になってしまった。

それでも、ホテル代は10ドルから35ドル朝飯付きで収まるし、飛行機代も1時間のフライトで70-80ドルで済むわけだから、日本円に換算すれば安上がりな旅がミャンマーでは可能になる。

というワケで今章ではミャンマーで泊まったホテルの何軒かを紹介しましょう。

仏教遺跡の街バガン
20ドル朝食付きホテル

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そのバガンのホテルで
早朝の太陽礼拝を楽しむドイツ人カップル。


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タンドウエの村のホテル。
蚊が多いように感じたので蚊帳を吊ってもらう。
10ドル/トイレシャワー共同。

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インレー湖のコテージ。

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そのコテージの35ドルの部屋

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キンプンの10ドルの部屋。

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地図を見ていたら突然バサッという音がしてナニかが落ちてきた。
イモリだかヤモリだかタモリだかが死んでいる。
放っておいたら目を覚ましたらしく
いつのまにか消えていたから
死んだのではなく気絶していたのだ。
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日本ではまったく知識がなかった
ベンガル湾に面したガパリビーチの夕焼け。

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そのガパリビーチで40ドルを35ドルにディスカウントしてくれた部屋。

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このように
一泊5ドル程度から数百ドルと
バックパッカーからセレブまで
それぞれの予算に応じて選択範囲は広い。
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「若いときには若いときの旅、
歳とったときには歳とったときの旅があるぜ〜」
という言葉を言い訳にして
ケッコー奢ったりしたこともありました。

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2010年1月16日 (土)

最後まで徹底的に使いこなすミャンマー

ミャンマー国内を走っている自動車バスの殆どは日本製だ。それも日本で廃車になった後輸入されて最後のオツトメをミャンマーで果たしているという感じ。ということで、車は右側通行なのに大多数の車は右ハンドルということになる。

とにかく芸術的にポンコツなのだ。まれに新車も見かけるけれど「ヤツは軍関係者ダッ」と勝手に決めつけちゃおう。

走行している車は日本の社名入りそのまんまだから、目の前を「上州こんにゃく」の看板背負ったバンが走っていてニヤリとしたり、東急や小田急の見慣れた観光バスに追い抜かれたりするわけだ。日本語の看板を塗り換えないのも、経費の問題というより、MADE IN JAPANを主張することがオシャレということなのかも知れない。

古都マンダレ−を走っていた福山通運トラック。

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仏教遺跡の街バガンの空港内で
第二の人生ならぬ第二の車生に励む
どこかの市営バス。

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北野田駅前-深井駅
などという行き先表示のまま走っているバス
キンプンにて

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さえりつ」ではない
つりえさ」だ。
かつて(有)徳森水産の自家用車が
ヤンゴンで活躍中だ。


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車がクルマなら自転車だって負けていない。

遺跡の街バガンのレンタルサイクルには
埼玉県警の登録票がそのまま残っていた。

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日本のメーカーは、自分たちが何十年前に作った車が、このように徹底的に働いて役に立っている事実を喜んでいいだろう。

私は皮肉でこんなことを書いているのではない。安全基準だとか排ガス規制だとか、そんな難しいことはお構いなし!修理部品の輸入もままならない環境下、とにかく自前で部品を工夫し修理に修理を重ね、動くうちは最後の最後まで走らせるというミャンマー人の技術力に感動したのだ。

ミャンマーは「世界最貧国」の何番目かだったかと思う。

だけどそれがどうした?

世界のすべての物事を

欧米人の尺度だけで判断することもなさそうだ。

ミャンマーにはミャンマーの尺度があって、貧しいことを貧しいとも思わずたくましく生きているのだ。

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チャイティヨー登山口の茶店で
仕事が一段落して
ギターを練習する青年。
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民主化!民主化!の“美名”の奥に
「世界最貧」の国を食い物にしようと
権益獲得のクサビ打とうとする姿が
チラチラ見え隠れするのは
気のせいか?

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2010年1月14日 (木)

ミャンマーの通貨単位はチャット

ミャンマーではトラベラーズチェックもクレジットカードも、もちろん日本円も通用しないと思った方が良いようだ。外国人旅行者向けのホテルや航空券はドル現金決済で、とにかくドル現金一本槍だっだ。

『地球の歩き方〜ミャンマー編』によれば

通貨はミャンマー・チャット(Kyat)。公定レートは1チャット=約20円だが、これは経済の実態をまるで反映していない無意味な数字。実際にはUS$1=1050〜1100チャット(2009年8月現在)

とある。

両替はホテルで可能だし、街を歩けば若い男が意味もなく声をかけるけど、、、♪サントワマミー〜

モトイ、、、街を歩けば「チェンジマネー?」の声もかかる。

『地球の・・・』ではUS$1=1050〜1100チャット(2009年8月現在)だったらしいレートも、その後のドル暴落を受けて、私が滞在時は1ドル=900〜970K程度。つまりUS$1=1000チャットと覚えておくと換算しやすく解りやすい。

私がホテルで両替したときには100ドル札で950K、小額ドル紙幣で900Kとレートに差がつき、額面の大きなドル札が喜ばれる。1ドル950Kで200ドル両替すると19000Kになり、このように立ってしまい、一気にお金持ちになった気分。

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そうそう、すこしでも汚れたドル札は受け取ってもらえず、代わりにお釣りの中に汚れドル札を忍ばせて渡そうとするから油断ならない。汚れドル札はアッチで断られ、コッチでイヤがられ、要するにババ抜きゲームをやってるようなもんだ。日本から持参したピン札出したときのホテルフロントのお嬢さんの嬉しそうな顏はいまでも覚えている。

ドル札の汚れ度には神経質なくせに、自国チャット札の汚れ具合には無関心なところがオモシロい。

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1000チャット以外の紙幣はみんなこんなもので、煮染めたティッシュペーパーのような札が平然と流通しているのだから笑ってしまう。

「ナンじゃ?このカネは!他の札に交換して!」

意地悪をいうと、実に情けなさそうな表情になるから可哀想になる。どうやら、1000チャット札以外の新札は印刷量が少ないようなのだ。確かに小額紙幣といえども印刷コストがかかるワケだ。ということは、現在流通している小額紙幣は順々に土に還り社会から消えて、1000チャット札だけが残り、“自然デノミ”が成立するということなのか。

何を考えているのか、

ミャンマーというのはこういう政府をいただく国ですよ。

だからオモロイ
というのが私の立場なのです。

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ヤンゴンのスーレバヤー近くのインド人街

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ミャンマーでは多数の民族が共存している。
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2010年1月12日 (火)

ミャンマーに行ってきた

この数年、年末から年始にかけて2−3週間海外に遊びに行くのが恒例になっている。

平均有給休暇消化率20%で、1日2日の休暇届けも恐る恐る提出するような雰囲気の中小企業で、「目標!有給完全消化!」と消えていく私に、会社としても同僚としてもあまりオモシロくない気分だろうが、だからといって「ダメだッ!」と公然と言う訳にもいかず、、、ツライところだろう。

どうせ老い先短いチャンジーが、やり残したことを消化するような気分でリュックサック背負って出かけるんだから、マッ!大目に見てもらいましょう。

というワケで、今年はミャンマーだ。

一般的に「ミャンマー」から思い浮かぶのは『ミズシマ、、、日本へ帰ろうよ』の「ビルマの竪琴」であり、「アウンサン・スーチーさん」であり、彼女を拘束する「軍事政権」だろうか。そして「長井さん射殺事件」の記憶が甦る人もいるだろう。私はこれらに加えて「ウ・タン・ト国連事務総長」も、その業績までは理解できないが名前だけはセピア色にスリこまれている世代なのです。

私が、なぜミャンマーだったか?というと、これが特別な理由もなく、ときどき飯を食いに行く定食屋のミャンマー人アルバイトがよく働くアタマの良いひとたちで、そんな彼ら彼女らの姿を見ていて「ミャンマーってどんな所だろう?」と興味を持ったという、例によってのミーハー視点。

ミーハーといえども、そこはソレ、ちょっと皮肉っぽく物事を見てしまうクセが染み付いた“チャンジーミーハー”だから、「日本人カメラマンが倒れていたのはこの辺りですよ」という言葉に、カメラ持った右手で空を突く長井さんの姿が生々しく浮かび上がる。

安全な建物の中から隠し撮りしたカメラマンはピューリッツア賞を受賞したが、真に栄誉を与えられるのは、自ら被写体になり死をもってミャンマーの現状を世界に伝えることになった長井さんではなかったのか。あの写真はどこから撮ったのだろうか?と、周囲の高層ビルを見回した。

「この辺りですよ」の場所にカメラを向けようとしたが思いとどまった。

あそこで客待ち顏のタクーシードライバーや、タバコを吸いながらボーッとしているオヤジは、もしかすると軍関係者かもしれない。たぶんそんなことはないだろうが、敢えてコトを起こしてトラブルを招き同行者に迷惑をかけることもない。

普通に旅行していて特に軍事政権の影を感じる事はなかったが、このときだけは「ミャンマーは軍事政権」の言葉がアタマをかすめる。首都ヤンゴンのランドマークともいえるスーレーバヤーパゴダ近くでのことだ。

旅先で出会った日本人のハナシ。

彼は本業の他に音楽や映画などの、いわゆるサブカル関係のコラムを雑誌などに本名で寄稿しているそうで、今回ミャンマー大使館に観光ビザを申請したら最初は却下されたのだという。いわゆる「文筆業」という職業にあてはめられたらしい。たぶんネット検索で身辺調査しているのだろう。その後「私は政治的なことには関わらないし、完全な観光旅行である」と大使館に一筆入れてビザを取得したそうだ。

このエピソードからも「長井さん事件」のあと、日本人訪問者に神経質になっているミャンマーの余裕の無さが察せられる。観光旅行といえども「ジャーナリスト」の入国審査は厳しいようだ。ミャンマー政府としては、それが真実であれ誤解であれ公開されることに拒否反応があるのだろう。

ミャンマーでドルを遣うことは軍事政権に協力することだ。

ミャンマー政府の人権無視に抗議する。

確かにそうだ!

仰る通り!

そういう主義主張の人はそのセンで頑張ってくれ。

私は、ミャンマーはうさん臭い国だ!ということは百も承知、千も合点のうえで、好奇心の方が勝ったから、ロンジーにサンダルでキョロキョロしながらあっちゃこっちゃ出歩いてきたのだ。

そんなミャンマーについて「見たこと感じたこと」を思い出すまま好き勝手に書いていこうか。次回にビザ申請した際に拒否されたとしても、それはそれでケッコ-!ケッコー!コケコッコー。

もちろん
私のオハコである『街のオーム』も
「こんなことがあっていいのか!」を含めて
いろいろ出てきまっせ。

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ヤンゴンにて

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どこの国の指導者だって
ソーク度においては五十歩百歩、、、。
だと私は思っている。
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「軍事政権」だろうが「NLD」だろうが
風を上手に読み切る民衆は
恭順の意を示すフリしながら
したたかにたくましく生きているのだ。
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