私はミャンマー人です
ヤンゴンで知り合ったミャンマー人によれば、ミャンマーでは主要7民族との和平協定が成立して、残りの1民族とは交渉中だとのことだった。その他にも少数民族は多数いて、騒動の起きそうな地区への旅行者の立ち入りは制限されているらしい。たぶん多民族を軍事政権というタガで強制的にまとめているというのがミャンマーの実態なのだろう。
もし、「民主化」の名の下にタガを外した場合には、世界の各地で見られる、民族間の争いに宗教間の争いも加わった混乱に陥りそうな気がする。軍事政権を容認するつもりはないが、見た目平穏に見える現状に接するとスーチーさん率いるNLDに統治能力があるんだろうか?という疑問も湧いてきたのだ。
他民族国家だから街を歩いていると、マレー系、中国系、インド系など多様な顔立ちの人たちが見られ、日本人と同じ顔の人もいます。
中にはこんな人も。

インレー湖の土産物屋の一角で機織りしながら生計をたてている首長族の家族です。これらの人々がごくフツーに共存しているように見られるのは私の贔屓目だろうか。
物不足という予想を裏切って各地の市場には食料品があふれていて、日本では高級品にあたるエビやカニもふんだんにある。じつは、「エビは外貨獲得のため輸出に回されるらしくレストランにはなかった」というようなサイトの書き込みを読んでいたので、市場の賑わいは意外だったのだ。
ヤンゴンで屋台のオバさんを冷やかし子供をからかったりしながら市場を進むと、、、。
腸詰めの腸がぶら下がっている店がある。興味深く見ていると奥の方から「コンニチハ」という日本語とともに愛想よい中国顔が出てきた。
「日本語はどこで習ったの?あなたは中国人ですか?」と訊くと、「私はミャンマー人です」の答え。お父さんは香港の出身で戦争中日本軍の船に乗っていたとのこと。旧ビルマで終戦になり、そのまま居着いて結婚し自分が生まれた。だから「自分はミャンマー人だ」ということのようだ。思いがけずも、ビルマと日本軍との関わりを知ることになった、市場の散策でした。
ミャンマー中部にインレー湖という風光明媚な観光地があります。その基地となるニャウンシュエへは空港のあるヘーホーからタクシーで約1時間。ニャウンシュエ自体には特に興味あるものはなく、ニャウンシュエの街を拠点にしてインレー湖周遊に出かけ、少数民族のマーケットやガーペー僧院のネコの輪くぐりを見学したりすることになります。
そのニャウンシュエを歩いていると店の奥から日本語で呼び止められた。外国で「コンニチハ〜」などと声を掛けて来るのは大体土産物屋か両替屋、それにポン引きと相場が決まっているから身構えたが、そのテの人間ではなさそうだ。
かなりしっかりした日本語を喋るので「どこで習ったの?」と訊くとヤンゴンの日本語学校で勉強したことがあったそうだ。少なくとも私の英語力よりは達者な日本語だ。親族がヤンゴンのボジョレーマーケットで宝石屋を経営していて日本人客を相手にして儲けようという意図があったのだろう。この店はミャンマー人奥さんの実家だそうで、奥さんにつきあっての里帰り中だとのこと。モーターオイルやらの工業製品を扱っているところから、かなりの資産家だとみた。
インレーの話などをしながら「あんたはシークか?」と訊くと「モスレムだ」という。
「ということは、、、モスレムのインド人だな?」
「ノーノーノー!私はモスレムのミャンマー人です」
祖父も父もインド人だけど、自分はミャンマーで生まれたからミャンマー人だということのようだ。
確かに!そう言われればそうだ。間違いない。
落ちそうで落ちない!巨大な石が鎮座増しますゴールデンロックのあるチャイティヨーからバゴーに辿り着き、ヤンゴン行きのバスを予約してブラブラ歩いていると、やはり日本語で声をかけられた。バイクタクシーの運転手で街のガイドをしてやるという。日本語は誰から習った?と訊くと、日本軍で働いていたお父さんから教えてもらったと言いやがる。
どうもうさん臭い匂いがするヤツだと思ったが、かつて日本軍のために働いたことのあるビルマ人の子供ならまんざら縁がないわけでもない、、、と思い、2時間のガイドを頼んだ。
ボロボロのバイクは20分も走ると動かなくなり、さらに20分も走ると再び動かなくなった。ガソリン切れたから1000チャット貸してくれ、、、必ず返すから信じてくれ。このバイクを修理に出して、友達から別のバイクを借りてくるからここで待っててくれ。
“ホトケのエアジン”と言われるほど温厚な私もさすがに切れた!
もういい!別のバイクでバス停に戻る!
うさん臭いと思ったタクシードライバーはホントにうさん臭かった。
バゴーのバス停に戻ると、さっきヤンゴン行きのバスチケットを予約した娘さんが出てきて「あら?もう帰ってきたの?」という顏をする。ミャンマーではバス停の周囲に旅行代理店を兼ねた数軒のブッキングオフィスがあって、チケットはだいたいこの間口2間ほどの店で買うシステムのようだ。
バスが出発するまでのしばらくのあいだ世間話をしていて解ったことは、彼女がシーク教徒の娘だということ。シークだと解るとこっちにもコロシ文句がある。
「グル・ナーナク!
オレはアムリッツアのゴールデンテンプルに行ったことがあるぜ〜い。
1974年のことだ。
あんたはまだ生まれてないだろう」
これでだいたいシークとの人間関係は成立するから、彼女はお茶を出してくれたり、家族の話になるとケイタイ取り出して子供の写真を見せてくれたりする。
「あなた結婚してたんだ!ハズバンドは何してるの」
「彼はあそこにいるわよ〜」
あ〜、そうだったのか!さっきから事務所を出入りしているハンサムな若い男がダンナさんだったのか。
「彼は仏教徒のミャンマー人でしょ!あなたはシークのインド人でしょ!その二人が結婚することに問題はないの?」
「彼はミャンマー人。私もミャンマー人です。別に問題はありませんよ〜。」
何を変なことを言うの?という顔をされて、そろそろバスの出発時間だ。
「あなたの旅が無事終わりますように。これはシークのお護りです」
そう言いながら人妻のシーク教徒は赤い紐を首にかけてくれた。
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現地人向けの、こんな車が走れるの?というようなボロボロの車体。
道ばたで手を挙げる人がいれば停車する乗り合いバスだ。
そんなバスに揺られ
2009年12月31日の夕方ヤンゴンに到着した。
大晦日も関係なくヤンゴンはいつもと同じで
平常と変わりはなかった。
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