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2008年2月29日 (金)

忘れないよ!ヴェトナム〜小鳥の歌

バックパックの旅から帰ってきてもう一ヵ月以上たつのに、腕時計の日焼けあとはまだ残っている。現地ではそれほどジリジリする暑さは感じなかったけれど、やはり日差しは強かったんだろうな〜。

こんなベトナム旅行紀があったことを思い出した。

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忘れないよ!ヴェトナム
田口ランディ

幻冬舎文庫

ランディさんがまだOLの馬場けい子だった時代、当時の同僚女性がお茶の水聖橋の上でつぶやいた言葉、
「あぁ、メコン川の夕陽が見たい」
なぜかこの言葉を長いあいだ心にとめていたランディさんが、実際にメコン川の夕陽を見にベトナムを訪れた旅行記がこれ。

確かランディさんの処女作で、発刊当時はそれほど話題にもならなかったけれど、“インターネットの女王”としてランディブームが起きてから再び日の目を見て本屋に並ぶようになったと記憶しています。

メールマガジンから活字世界に進出すると、「盗作騒ぎ」でポイント下げたけれど、この処女作を改めて読んでみると、ベトナム亜熱帯に住む人々の“しぶとさ”“したたかさ”“エネルギー”(それも並外れた)を捉えた異色の旅行記になっていて、改めてランディさんの実力を思い知らされた作品です。

ランディさんがこのベトナム旅行に持っていき、慣れない環境で気持ちがメゲたとき、何気なく開いたページに書かれたフレーズによって、励まされ新しい気づきが得られたとされるのが『小鳥の歌/アントニー・デ・メロ』という本。

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小鳥の歌
東洋の愛と知恵
アントニー・デ・メロ著
谷口正子 訳

女子パウロ会
1985.01.25

自分で買った記憶も誰かに借りた記憶もないこの『小鳥の歌』を、なぜ自分が持っていたのか不明のままベトナム行きの カバンに入れたというのがミソで、
 旅するあなたにとってこの本が必要だからあなたの手元にあった
という、「私たちに起きることに偶然はない」とする“精神世界”永遠の原則へ結びつけようというランディさんの意図も感じられます。

そう思えるほど『忘れないよヴェトナム』には『小鳥の歌』のメッセージが効果的に引用されています。

数年前のこと、『忘れないよヴェトナム』を読んでるとき、何気なく古本屋に入ると「オレが来るのを待ち構えていたんじゃないか」と思えるほど絶妙のタイミングでこの『小鳥の歌』の背表紙が目に飛び込んできたことがありました。

「私たちに起きることに偶然はない」というのは私にとっても強く共感するフレーズだから、ランディさんの本を読んでる最中にこんな形で出会ったのも何かの巡り合わせと『小鳥の歌』を買ってはみたものの、読みもしないで段ボール箱へ入れたままにしておいたワケです。

それから数年経って、今回『忘れないよヴェトナム』を再読していて『小鳥の歌』のことを思い出し、段ボール箱から探し出してバックに入れて出勤。会社近くのファミレスで読み始めたものの数ページであきらめてしまい、けっきょく『小鳥の歌』は元の段ボールへと戻ってしまったのです。

今の私には“精神世界”関係のミョーに思わせぶりな本を1冊読み続ける気力は失せてしまったみたい。

かつては『バシャール』を初めとするチャネリング本を筆頭に“精神世界”関係の本を読み漁り、見えない世界へ思いを馳せた時期もあったけれど、最近は現実主義者になってしまったようで、今の目の前に見えるものしか関心を持てない「正しいヤジオ道」へと軌道修正中のようです。

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2008年2月28日 (木)

テキサスブロンコよ永遠なれ

ソニー・ロリンズとプロレスラーの『引退』ほどアテにならないものはない。

ロリンズこの春にはまた来るらしいじゃないですか。

『最期の日本公演』という記事をいったい何回読んだだろうか?

「これが見納め、聞き納め」とばかりにケッコーな興行成績収めるんでしょうな。

片やプロレスラーというのも『涙・涙のテンカウント』の東京スポーツのインクも乾かぬ間に、新団体発足の助っ人として馳せ参じたり、覆面剥がされ素顔晒したら引退したはずのヤツだったとか、弱小団体を渡り歩くたびに『引退試合』で最期ッ屁かましていったりとか、いかにもプロレスらしくってこういうハナシは大好きです。

さて、

この方は御歳67歳で引退だそうです。

2008.02.26(水) 毎日新聞

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日本で引退試合を行う名レスラー
ドリー・ファンク・シニアさん(67)
Dory Funk Jr.
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毎日新聞もこの方にどんな義理があったのか?それとも高齢化社会への応援歌なのか、

「純粋な競技スポーツでも単純なショーでもない、『虚実入り乱れる』」

世界に身を置く一介のプロレスラーに対しては破格の取り扱いです。

ファンク兄弟の初来日からテレビで見ていたけれど、いかにもヤンチャな弟ファンクと、陰気ムードの兄ドリーという、兄弟タッグチームは陰陽キャラで上手くバランスとれていましたネ〜。

ドリーのキメワザというのが、相手の足首を掴んだまま相手の右足を軸にして自分が反時計周りに回転するというスピニング・トー・ホールドというヤツ。これをかけられると対戦相手は足首がイタイイタイでギブアップする設定だったけれど、「黙ってワザかけられていないで身体を回転すれば逃げられるダロッ!」などとツッコミ入れながら喜んで見ていましたネー。

この必殺ワザも、大プロモーターである父のドリー・ファンク・シニアが目を光らせている間は有効だったけれど、シニア亡きあとは軽いキック一発で返されたりしてそれほどの効果は上げられなかったみたい。ヤッパ!オヤジさんの威光あっての必殺ワザだったといってはあまりにもうがちすぎかな。

オヤジさん亡き後のファンク兄弟にアメリカマット界は冷たく主戦場は日本ということになって、ブッチャー/シーク組とのどこまで本気でどこまで了解事項なのか分からなくなるような凄惨な試合には大いに興奮したものです。

時代は変わり、ファンク兄弟のキャラクターでは極端にショーアップされていったアメリカプロレスとは馴染まず、第二のマーケットである日本マット界は「日本人対外人」より「日本人対日本人」のカードが人気を集めて、元NWAチャンピオンという肩書きもやがて色あせてしまったようです。

こんな、もう既に忘れさられたようなプロレスラーが日本で引退試合ですか。

この毎日新聞の記事によれば、「70歳近い今も戦える体を維持してきた」というけれど、67歳ですよ。誰と対戦するのか?「老人虐待」で告発されるんじゃないかい?

人知れず静かにフェードアウトする人
失笑されながら消える人
惜しまれて引退する人
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いずれにしても
ジャズマンも
プロレスラーも
私たち無名人も
引き際は大切ですヨ〜。

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2008年2月26日 (火)

MacBook Airは世界最薄

一時期はこの人の顔がテレビに出ない日はないぐらい出ずっぱりの見慣れたお顔でしたが、あのころに比べると、久しぶりに見る三浦和義さんも随分と風貌が変わってしまって、、、ヤハリ、、、よる年並には勝てませんな〜。

それにしてもこの方、不思議な星のもとに生まれた人だとつくづく思います。

三浦さんの行く末はロス警察にお任せするとして、私はこんな新聞記事が目を引きました。

2008.02.25(月) 毎日新聞より

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世界最薄予約殺到 
アップル ノートPC MacBook Air
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パソコンの一機種が一般紙にも大きく扱われるほど話題を集めているようです。
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ワシ・・・・
持ってるもんね〜。
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  to airegin
MacのCMを見る度、えあじんさんを思いだしてましたが、
とうとうお手元に届きましたか。
今度は、かなり持ち運び楽ですよね。

mixiはあまり期待できる内容ではなかったみたいですね、残念!

じゃあ私もこれから仕事に向かいます。
MACにて。

 to airegin
あなたの好奇心の源がどのへんにあるのでしょうか。

  to airegin
ほほう、MacBook Air背負って、早速街に繰り出してますか・・・。

失礼な言い方ですが、「タダモノのオヤジではない」雰囲気ですね。

旧MAC、スペック詳細はわかりませんが、
何はともあれ11万現金、
ていうのは上々の取引と思います。

満員電車でくれぐれも押されないように。
いったん「たわむ」と元に戻りませんから。

というワケで、前のMacは下取りに出して『世界最薄』に乗り換え。
土方指とは不釣り合いなキーボード打ちながら
サイトの更新などを楽しんでいるのです。
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いつもいつも書いているのですが
こんなことをして
刺激を与えてないと
ペテンが錆び付いてしまいそうな
そんな強迫観念に駆られている
私は三浦和義さんと同じトシなのです。

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2008年2月24日 (日)

世田谷でこんなものを食ってきた

渋谷から246を厚木方面を目指し、池尻三宿から左に昭和女子大を見てしばらく行き、カラオケビルを挟んだ三叉路なのか四叉路になるのかの首都高下をそのまま左に走れば厚木方面、右に別れるのが世田谷通り。

この三軒茶屋交差点を通るたびに気になる看板があって

ベトナム汁そばフォー
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の提灯文字。
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やはり
これまでのカンボジア/ベトナムのナガレからして
リサーチしておかなけりゃならんだろうと、、、、。
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あじあやたい
屋台
FO


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並んでる人たちは隣りのマクドナルドの行列。
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店内は9席ほど
看板に偽りなしで屋台に毛が生えたていどの規模のお店。
狭いキッチンでは日本人男性がお腹をぶっつけながら調理作業中。
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鶏肉野菜フォー
525円也
このフォーはビーフン。

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南北に細長いベトナムではその地方で生産される穀物も異なり
肥沃なメコンデルタの圧倒的恩恵を受けるベトナム南部では
米を原料にした麺(ビーフン)が多いみたい。
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オヤジの愛想は悪いけれど味はイケる。
あっさりした味付けで2杯はOK。
僅かに紛れ込んでいる香草の舌触りがベトナムを思い出させます。
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世田谷通りついでにもう一本。

三軒茶屋から世田谷通りを町田方面に向い環七を越えて右に世田谷区役所入り口、さらに進みボロ市通りの案内が見えるようになると三菱UFJ銀行を挟んでの二叉路。この二叉路手前にも押さえておきたい店があります。

その名もズバリ
SAIGON

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バラック風建物と看板
それに昔ながらの木立がウマく合致して
エスニックな雰囲気が漂う一角が旅ゴコロをソソリます。
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ベトナム風ビーフン
720円也
野菜タップリビーフンに揚げ小エビ春巻きが乗っていたりの豪華メニュー。

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店内はレゲエをBGMに店員もドレッドヘアーがいたりして
ベトナム料理店というよりはいわゆる無国籍食堂風。
チラチラ見えるキッチン内ではベトナム印度系が働いている様子。
夜になると酒場になるらしく焼酎のビンの列。
世田谷線の電車が通るたびに揺れる店内も思わぬ演出効果を上げています。
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こんなふうに
これまでインドカレー屋ばかり目立った世田谷通りにも
インドシナの風をどん欲に飲み込んで
無国籍状態になってきてます。
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そんな世田谷通りのブックオフで見つけたのがこの本。

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ベトナムの何カ所か歩いてみても
かつてこの地で戦争があったことを伺い知ることはできなかったし
ベトナム戦争題材にしたアメリカ映画を振り返っても
あんな悲惨な戦争が本当にこの地であったのだろうか?
と思えるほど見事に上書きされています。
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もはや記憶も薄れかけていくベトナム戦争だが
古典的名著といわれるこの本を読んで
30数年前の戦争を振り返ってみようと思うのです。

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2008年2月23日 (土)

ベトナムでこんなものを食っていた

2007年年末から2008年初めにかけておこなったカンボジア/ベトナム旅行記もそろそろ着陸態勢に入りました。今回は例によってベトナムで食べていたものを紹介いたしましょう。

朝食つき安ホテルの
バケットにオムレツにお茶という
基本的メニュー。

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これは美味しかった。
ホーチミン市のドンコイ通りあたりだと思うけれど
創作ベトナム料理という感じのオシャレな店。
具沢山ご飯をバナナのハッパで蒸した(?)日本風おこわ。

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ベトナムといえば当然春巻き。

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メコンツアーの昼食。
何の肉かわからない噛み切るのに一苦労。

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テーブル脇に貼り付いて
ひたすらおコボレを待つワンちゃん。
上の固い肉はもしかすると犬の肉だったりして。

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ホーチミンのファーストフード風のお店。
かつてクリントン大統領も立ち寄ったことがあるそうで
店内にはその写真も飾ってあった。

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ホーチミンから国道一号線をハノイに向っている途中の
ムイネーというリゾート地のホテルで食べたチキン焼そば。

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フエで食べた白身サカナをバナナの葉で包み蒸したもの。
隣席の白人旅行者が食べていたので
「ソレ・・ウマイか?」と訊いたら
「ビューティフル!」との答えだったので
「コレをくれ」と注文。
「ビューティフル!!!」

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フエのそば。
ベトナムのそばは何を食べても美味しい。

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フエのカフェで一休み。
ネスカフェとアップルパイで1ドル。
ちなみにベトナムでは
紅茶を「ティー」といわずに「リプトン」という。

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ハノイ裏町の大衆食堂の様子。
大皿に並べてある料理を指差して注文。

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バックパッカーらしいメニュー。
これだけ食べてもお金は2ドルとかそんなモノです。

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ハノイのホアンキエム湖畔
オシャレなフレンチ風レストランの焼き肉丼。

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ハノイ裏通りで食べるベトナムそば。
隣りのオヤジさんが食べているものを指差してのボディランゲージ注文。
付け合わせのモヤシを入れスダチを絞って食べる。

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裏通りを歩けば小路にはこんな屋台が開業していて
日本の風呂場にあるような小さなイスに座って
思い思いのそばを食べる。

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たぶん
B52が上空を飛び交っていたムカシの時代も
空襲警報が鳴るとドンブリ持ったまま地下壕に潜ったんじゃないかな。
そして
今だって
支配階級層の権力争いなどにも関心なく
ただひたすらそばをツルツルいわせて
ノラリクラリと生を全うしていくんじゃないかな。

というワケで、

「にっぽんめんくい党」としては、ベトナムそばに庶民のしたたかさをみているうちに、年末から年始にかけての“インドシナひとり旅”もエンディング。

ホーチミンからハノイまでバスで縦断したあと、こんどはハノイからホーチミンまで飛行機で戻る(約2時間=約100ドル)という、チョッと非効率的ルートでホーチミン市ノイバイ国際空港に到着。

大韓航空カウンターに行けば、ソウルの大雪のせいでソウル発の到着便が遅れているため、午前0時発ソウル行き大幅に遅れるとの案内。ということは、当然予約してあるソウル→成田便にも間に合わなくなることは確実。「それはどうなるアルカ?!」とKAL係員に質問しても「それはソウルのカウンターで確認してほしい」との返事が返ってくるだけ。

心配しても仕方がないと免税店など覗いているうちに日本食レストランの看板を発見。

店前ウインドウには“にぎり寿司”や“てんぷら”の見本に混じって“サッポロみそラーメン”もある。連日ベトナムそばを食べてきて、これから日本に向う飛行機に乗ろうというこの期に及んでもなお、ベトナムで食べる“サッポロみそラーメン”という図柄にひかれた仕事熱心な「にっぽんめんくい党」。

ホーチミン市ノイバイ国際空港で深夜に食べた
サッポロみそラーメン7ドルなり。

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結局午前0時発予定のKAL機がノイバイ空港を離陸したのは午前3時頃。
約5時間のフライトでソウル(仁川)空港到着。
当然予約してあった成田行きの便は出た後だったので直近の便に変更。
ソウル空港でも「にっぽんめんくい党」と思ったけれど
ベトナムの空港で深夜に食べた「サッポロみそラーメン」のせいか
旅の疲れが出たせいか胃がもたれるのでパス。
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約2時間のあっけないフライトで成田到着。
便を変更したことで荷物がうまく着くか心配したけれどトラブルなく
見慣れたバックパックがベルトコンベアーを流れてきて
老いらくのバックパッカー
17日間インドシナひとり旅を
無理矢理着陸させたのでした。

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旅行案内なのか
グルメ案内なのか
書いてる本人もよく分からない
カンボジア/ベトナムシリーズ
おつきあいいただいた方には感謝いたします。

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2008年2月22日 (金)

ホー・チ・ミンのバラード

ちょっとベトナムに行ってきたらこんな記事にも気づくようになった。

2008.02.20 毎日新聞

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なるほど、杉良太郎さん「約20年前からベトナムで孤児院支援などに取り組んでおり」という関係があったワケだ。それにしても高村さん、スギさまの貫禄に押されてどっちが外務大臣だかわからないようですね。マッ!どうでもイイけんどもヨ〜。

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ベトナム戦争が集結して30数年。

北ベトナムベトナム初代大統領ホー・チ・ミンは、ベトナム戦争終結を見届けてから亡くなったと思っていたら、戦争終結以前に亡くなっていたことに初めて気がついた。ホー・チ・ミン(1890−1969)死後に達成した北ベトナムによる南ベトナム制圧は、北による南への「侵攻?」それとも「解放?」、「乗っ取り?」それとも「吸収合併?」。そのあたりになると私には勉強不足で説明できないところです。

しかし、戦争終結後に多数発生したベトナム難民(ボートピープル)の日本漂着の新聞記事を読むたびに、共産党政府による旧南ベトナム住民への厳しい弾圧が想像されてイヤな気分になったことは記憶しています。そして、「南ベトナムを解放せよ!」「アメリカは南ベトナムから手を引け!」などと発言していたヒトたちが、「ベトナム難民問題」や「越中戦争問題」になると、沈黙してしまったことを不思議に思っていたワケです。

オマエらのあのアジ演説はどこへ行った!
今度はベトナム共産党政権に対してモノ言わんか!

あれから随分月日がたって、今更ムカシのことをほじくるのもナンだけど、過去を忘れたかのように、今では“進歩的文化人”ヅラして耳障り良い言辞を弄してるヤツらを見かけます。ヤツらにとって一時期のサークル活動的感覚だったのか?そんな世渡り上手に長けたヤツらには首から『キムチ納豆』突っ込んでやりましょう。今からでも遅くないぜッ。


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ひとしきり悪態ついたあとはこんなレコードを紹介しましょう。
このレコード
「1969年9月6日大阪フェスティバルホールにて実況録音(大阪労音例会)」
とジャケットに表示してあります。
こんな歌で本当に盛り上がったの?と
不思議なほどツマラナイ歌ですが
時代考証の意味もこめてアップします。
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ベトナムの国父として神格化されてしまったホー・チ・ミンは
不屈の精神力をもった闘志としての反面
地位とか権力にこだわることのない清廉潔白な人格だったらしい。
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そんなホー・チ・ミンが望んだとは思えないけれど
旧サイゴンは中黒外したホーチミン市となり
ホーおじさん肖像をプリントしたTシャツが土産物として売られ
オートバイの客引きがひっきりなしに声をかける町に変わりました。
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共産党一党独裁による政権運営も
信用できないけれど
少なくとも
民衆が銃声の音に怯えることなく暮らせるようになっただけでも
“良し”としなければならないかな。
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統一会堂(旧南ベトナム大統領官邸)
ホーチミン市
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2008年2月20日 (水)

ハロン湾クルージング

私が初めて会ったベトナム人は1974年のカサブランカだった。

そのベトナム人は、うす小汚いバックパッカーの私に声をかけ、ベトナム料理店で腹一杯メシを喰わせてくれたあと、ヤバそうな建物に案内してホットシャワーを浴びさせてくれたのだ。だいたい旅先で声をかけてくるヤツには要注意と相場は決まっているけれど、その時はホットシャワーの誘惑に負けて「ドロボーでもモーホでもスキにしろ!」と捨て鉢な気分。

彼は実際に要注意でもなんでもなく、スポーツジムでフランス人相手のマッサージ師として働いていて、街で見かけた同世代のアジア人に対しての親近感から私に親切にしてくれたのだった。その親切に甘えてカサブランカ滞在中はいつも彼のいるジムに顔を出してはご馳走になったりシャワーを浴びたりしていた。

旅をしていると過剰な防衛が身を護ることもあるし、また、他人の好意を裏切ることもある。 一瞬でも彼に対して疑いをもったことを恥じたのはず〜っとあとのことになる。

ベトナム人がどうして北アフリカのカサブランカくんだりにいるのか?最初は分からなかったけれど、ベトナムもモロッコも旧宗主国はフランスだったことで、フランス語圏での働き口あったのだろう。

30数年前にベトナム人から世話になったという体験で、その国にシンパシーを持ってしまうということもあるのです。

かってのイギリス植民地やフランス植民地のその後をみると、イギリスよりもフランスの方が統治が上手だったような気がする。イギリスは搾取するだけ搾取してズラカリあとは知らんぷり。フランスの場合は独立後も旧宗主国として影響力を保持できたということは、植民地経営ではフランスが長じてたようです。フランスは搾取するだけでなく、フランス文化というような精神的なものをうえつける術を心得ていたのかもしれません。
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さて、

カンボジアのシェムリアップから始まったこの旅も、どうにかこうにかハノイにたどりついて、ゴールも間近です。。

ハノイまで来たからには、観光客らしくちょっと遠出してハロン湾も押さえてしまおうか。

ハロン湾のホテルに1泊してノンビリしたかったけれど、時間がないのでハノイからの日帰りツアーに参加(昼食付き29ドル)。朝8時ころにベンツのミニバンでハノイ出発。道路両脇は工業団地らしく整備されて、いつでも工場誘致ができる態勢が整っているようだ。

ハロン湾の船着き場に着いたのが11時ころ。船着き場は乗船を待つたくさんの欧米人観光客であふれている。

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湾内もまたボートで埋め尽くされて壮観。

そんな中、船員に抱きかかえられて意識不明状態で事務所に運ばれた白人のお婆さんがいたりして。慣れない環境で無理して日程を消化しているんだろうな。

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ハロン湾は浸食によってできた1000とも3000ともいわれる奇岩の屹立する「海の桂林」とも称される景勝の地(だそうだ)。そんな岩々の間をボートは進みます。

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これは私の愛用のクロッグス。

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湾内だからもちろん波はなく、こんな景色を両脇に見ながらの快適なクルージング。

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この日はちょっとモヤのかかっていたのが幻想的なムードを醸し出します。

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カヌーを楽しむ白人カップルもいる。この薄ら寒い中タンクトップでよ〜やるワ!。どんな環境でも自分たちの楽しみをどん欲に追求しようというこの姿勢には感心します。

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ボートは筏にもやうとそこが水上レストランになり、こんな生け簀の中の魚介類をお客の好みによって調理してくれる仕組み。ただしこのツアーのお客は締まり屋ばかりであまり商売にはならなかったようす。

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ボートには果物売りの手漕ぎ船も横付けして客を待つ。

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食事が済んだあとボートは次の島へ。ナントカ島には巨大な鍾乳洞があり、奇岩とともにこれも名所らしい。

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「海の桂林」といわれても、「桂林」そのものも知らなデ〜」というていどで流して、鍾乳洞で見かけた横山ノックさんのほうに興味をもつというのが私の癖なのです。

これでハロン湾の観光はオ・ワ・リ。

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ベトナム旅行から帰ってきて、後追いになるけれどこんなビデオを観た。

インドシナ

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フランス植民地だった時代のベトナムが舞台になっていて、その当時のベトナム支配者であるフランス人やベトナム人の関係が理解できる傑 作映画です。この映画の中で、軍組織に背き左遷された将校の赴任したのがハロン湾。再会した恋人と海面に突き出た岩々の間を漂流するシーンは印象的でした。

順風満帆に思えた植民地経営が、激しい抗仏戦争、そして独立を承認という経過がこの映画の背景にあって、アメリカさんが首を突っ込む以前から、ベトナム人はいわば“戦争慣れ”していたことがよ〜く分かります。

けっきょくハロン湾の二人は逃避行の末、男は殺害され女は抗仏運動に身を投じ、二人の間にできた男の子はカトリーヌ・ドヌーブに引き取られるという結末。実際のハロン湾を見たときよりも、映画の中のハロン湾に何倍も感動したワケです。

それにしても
フランス映画には
ハッピーエンド
というヤツがないなぁ。

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2008年2月18日 (月)

ハノイ到着

前回紹介した「立松和平の地球探訪問/フエ/毎日新聞」の下には日本と最も安定した友好関係というタイトルでこんな記事があります。

日本とベトナムとはアジアの中でも最も安定した友好関係を保っている。ベトナムにとって、日本は最大の援助国だ。日本の政府開発援助(ODA)は10年で4割ほど減額されている中、ベトナムの援助額は900億円前後が維持されている(ベトナム協会)。この重点配分に対し、ベトナム政府は感謝の表明をくり返し行っている。(2008.02.14 毎日新聞)

その日本だってただの好意だけで資金援助してるわけでもなく、それ相応の見返りを期待しての援助。その見返りがベトナム全土に溢れている日本製オートバイということになるのでしょう。私が知人に「今度ベトナムへ行くんだ」と言うと、さる有名メーカー勤務の彼は、これまで、中国一辺倒だった部品調達の拠点をベトナムに移転しつつあると話してくれたっけ。やはり中国の政治に対する潜在的な不安をぬぐい去れず、「もし」という際の保険的役割がベトナム投資の動きになっているらしい。

ベトナムは韓国とも良好な関係を結んでいるらしく、ベトナムでのオートバイが日本メーカーの独壇場なら、大型車ということになると、なぜか韓国のヒュンデ(現代)になるようです。そして、韓国人旅行者も多く、ベトナム人、在外ベトナム人、日本人、中国人、韓国人と、同じ顔がそれぞれ別の言葉で入り交じっているワケです。

現在のベトナムと韓国の友好関係はおめでたい限りだけど、かつてのベトナム戦争時代、のちに韓国軍人出身大統領となる全斗煥・盧泰愚率いる韓国軍がベトナムで何をしたかということを私は知っていまっせ。

98年、金大中大統領はハノイを訪れ、ベトナム戦争に戦争についてこう述べた。
「過去の一時期、不幸な時期があったことを遺憾に思う」
この言葉に対し、ベトナムのファン・バン・カイ首相は「過去に区切りをつけ、未来をみつめよう」と述べただけだった。共産党独裁のもと、ドイモイと呼ばれる改革開放で経済発展を進めるベトナムにとって、韓国は重要なパートナーだ。そうした配慮もうかがわれる。
韓国軍は虐殺について、きちんとした真相調査をしていない。「包括的な過去の清算」を掲げてきた盧武鉉政権は、軍事政権による人権侵害の調査などを進めてきたが、なおこの問題に手をつけるまでには至っていない。
 
(2008.01.29 朝日新聞/歴史は生きている/韓国 軍も企業もベトナム参戦より)

「過去の一時期、不幸な時期があったことを遺憾に思う」

金大中大統領が述べたとされるこの言葉、これまで何度となく聞いたことがあるけれど、これってパクリヤンケ。

「自分たちがしたこと」はこの言葉で済まそうとして、「自分たちがされた(とされる)こと」に対しては、この言葉を何回くり返されても、「反省がたりない!」、やれ「歴史認識がたりない」などとノタマウのがかの国のヤリクチデッセ!とツッコミいれておいて、ホーを食べにベトナムへ戻ろうか。

ベトナムで2階だてバスに初めて乗った。2階だてバスといってもロンドン市内を走る赤いヤツではなく、車内が2段ベットになっているスリーピングバス、つまり寝台バスのことだ。

フエ→ハノイの移動に乗ったのがこの寝台バス。ちょうど身体が横になれるくらいの長さのベットが3列5行2段のスグレモノ。西洋人には長さが足りないようだが、アジア人の背丈にはそれほど苦にならない。

じつは、このバスが韓国ブランドの現代だったのだ。

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日本ではこんな寝台バスの走行が認可されてるのか知らないけれど、背もたれに寄りかかって窓外の景色を見るも良し、横になって眠るも良しで、フエ→ハノイ12時間の移動も苦にならない。

途中のトイレ休憩にも気がつかないまま眠り続けて、眼が覚めたときにはベトナムの首都ハノイに着いていた。

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シン・カフェ関係者の青年の紹介してくれた、旧市街にある1泊12ドル(朝飯付き)のホテルにバックパックをほどく。

ホテル周辺の路上にはこのように露天がたっていて、かつてB52戦闘機が飛来した時代も、上層部が権力争いしていた時代も、庶民の生活はこのように変わらない風景だろうと思うと嬉しくなってしまう。

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雑然とした旧市街とくらべると、ちょっと落ち着いた雰囲気のあるハノイ大教会周辺。旧市街が安ホテルのあるバックパッカーの溜まり場なら、洒落たレストランや土産物屋が並ぶこの大教会周辺もは別の意味でのバックパッカーの溜まり場。旅行者の求めるものは何でも手に入りそうです。

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バイクの騒音の中歩き疲れた身体に、ハノイのシンボル・ホアンキエム湖を通してくる風が心地よい。

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風の涼しさを感じて、さすが首都ハノイはベトナム北部に位置していることを実感する。

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湖畔のカフェで
カプチーノを飲みながら
この旅も
そろそろ
終わりだな
.
そんなことを思う
ハノイの午後でした。

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2008年2月17日 (日)

ベトナムのフィーゴ

「ベトナムって若い女の子に人気なのよ」

ホーチミンの「シティ・ツアー1日コース」で出会った日本人女性がそんなことを言っていた。彼女の言によれば、小物、それにマッサージとかグルメが日本人女性の注目を集めているのだとか。「コモノってどういうの?」と訊けば、バックだとかインテリア雑貨類のことだとか。確かにホーチミンやハノイを歩いているとZAKKAと書いた看板を見かけます。なるほど、帰国時にはお土産いっぱい抱えた日本人女性がイメージできます。

その彼女と話すキッカケは、二人ともクロッグスの同色サンダルを履いていることに気づいてニヤリとしたこと。このサンダルは蒸れないし汚れも簡単に水で洗い流せるし、なによりもアンコールワットの遺跡群でも平気だった歩きやすさが素晴らしい。これからのバックパッカーの必需品になりそうな予感がします。

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このクロッグス仲間のお嬢さん、ツアーバスを降りると「アオザイ姿の撮影にスタジオを予約しているから」と、クロッグスをパタパタいわせてホーチミンのバイク洪水へと溶け込んで行ってしまった。お正月の「ベトナムひとり旅を最高にエンジョイしているようで、見送るこちらも嬉しくなるようでした。

私の利用した「シティ・ツアー1日コース」というのは7ドルで、これを利用すればホーチミンの主な名所を観光できるお得なコース。ツアー参加者は、クロッグスのお嬢さんも含めて40人くらいの多国籍軍編成。

この中に実に陽気な男がいて、ガイドに熱心に質問したり、何か面白いモノを見つけると「ママ!ママ!」と連れの年配女性を呼び止める典型的ラテン系男。イタリア人と思っていたらポルトガル人だと言います。連れの年配女性は「ママ!ママ!」と呼んでる通りのママ・・・つまり本当のお母さん。母と成人息子という珍しい組み合わせ。

「オマエはどこから来た?」「日本だぜッ」という、初対面同士のアイサツが終わると、ポルトガル男は急に「ザビエル!ザビエル!」などと言い出して、どうやら日本にキリスト教を伝えたのはフランシスコ・ザビエルだと言いたいらしい。

私も相手がポルトガル人だと分かれば「フィーゴ!フィーゴ!」と知ってる唯一のサッカー選手の名前を連呼して、ハイタッチなどして笑い合ったワケです。

そのホーチミンでの初対面以後、このポルトガル母息子ペアとは3回も遭遇することになります。

1回目はニャンチャンから深夜バスでホイアンに向っている途中のドライブインでのこと。薄暗い中から聞いたことのある声だと思ったら、ヤツで、「フィーゴ!」と声をかけると「ヘイ!ジャパン!」ときたもんだ。フィーゴは真夜中でも元気ハツラツ。ママは深夜のバス移動にさすがにグッタリしている様子。バスは違うけれど私と同じくホイアンを目指してるのだといいます。

2回目はホイアンの町中を歩いていて遭遇。私に気がつくと「ママ!ママ!」と土産物屋の奥からママを引っぱってきてのご対面。ママはだいぶ元気を取り戻している。

ホイアンでのフィーゴ母息子

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3回目はフエの町を歩いていて、お茶を飲もうかと小ジャレたカフェの店先でメニューを見ていたら、店の中から「ヘイ!ジャパン!」と声をかけられた。フィーゴが先回りしてやがる。ママは「アナタとはどこでも会うわね」と大笑いしている。

この母息子はこれまでタイ→カンボジア→ベトナムと旅してきて、このフエからラオスのビエンチャンへバスで抜けるのだといいます。フエで7ドルのホテルを見つけたというから「1人7ドル?」と訊けば「ノーノー!2人で7ドルだよ!」。7ドルのホテルに泊まる母息子のバックパッカーというのも、チョッと不気味な感じがします。

フエでのフィーゴ母息子

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あなたがたはラオスか、オレは今日の夕方ハノイ行きのバスに乗るから、もう会うこともないだろうね。ママ・・・それじゃ元気でネ。

ヨボヨボの爺さん婆さんのバックパッカーがいたり
フィーゴのような母息子のバックパッカーがいたり
日本人と西洋人では旅に対する感覚がまったく違うんだろうな。
これって
あんがい
土地にしがみついてきた民族と
植民地を求めて他国に攻め入った民族との
血の差のような気がします。

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Sikiri

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まったくの偶然なんだけど
このフエでのフィーゴ母息子の章を書いていた
14日付毎日新聞にはこんな記事がありました。
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2008.02.14(木) 毎日新聞夕刊

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立松和平さんがベトナム協会主催
文化と教育についての「日越知的交流会議」の招待で
ベトナム/フエを訪れ
歓待を受けて感動した
そのレポートです。
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著名な作家にしてはヤッツケ仕事のような文章だけど
マッ!イッカ!
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ちなみに
立松和平レポートは
こんな文章で結んでいます。
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(ベトナム人は)笑顔の美しい隣人である。
隣人なら仲良くしなければならない。
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その美しい笑顔の奥に
なかなかどうして
したたかなものを隠しているような気がするけれど

マッ!イッカ!

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2008年2月16日 (土)

フォー・エヴァー・ヤングを聴きたい気分

健康保険組合の診療所へ行ったついでに眼科へも寄ってみた。

これまでは簡易老眼鏡のようなモノで済ませていたので、ここらでちゃんとした眼鏡を作ろうかと思いついたもの。視力検査は右左1.5と1.2と看護婦さんにもほめられたほどで、遠くはよく見えるけれど手元が見えなくなった。パソコンをやるようになってから急速に老眼が進行したことは想像がつく。

医師の処方箋に添付してあった2割引きに吊られて眼鏡屋へ行けば、何十万もするセットさりげなく見せられ、日銭稼ぎの身には一番安いヤツで充分と・・・それでも4万の臨時出費になってしまった。

医師の処方した眼鏡だからと、一応の安心感を抱きながら駅に向う途中、安売りの眼鏡屋の前を通りかかり、フト思いつき、これでも5000円でOKか?と、さっきの処方箋見せて訊けば、アルバイトらしき店員、もちろん大丈夫です、レンズの在庫があれば20分、在庫がなければ数日で出来上がりますとの答え。

何事にもピンからキリがあるのは分かるけれど、40000円と5000円の差は何だろうネ。

ハメマラと

よくぞいいせし

ミカン剥く

テガッ!

Sikiri
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ソニー・ロリンズの「引退宣言」というのもまったくアテになりません。

“最後の日本公演”の舌の根も乾かないうちに、2008年5月にはまたもや来日するそうじゃないですか!。

   まだ生きてたんか!?

「♪パッパ パッパ パッパパッパ パッパッパッパー」などとおヤクソクの『♪セント・トーマス』やられると、拍手しちゃうんだろうから、日本人てホントに面倒見が良いね〜。

それにしても、このオッサン・・・元気だなぁ。

バレンタインデーつながりでチェット・ベーカー晩年の『♪マイ・ファニー・バレンタイン』映像を見ていて「人間は確実に老いて、そして死んでいく・・・・」と思ったら、チョッとブルーな気分になってしまった。

そして急にニール・ヤングの『♪フォー・エヴァー・ヤング』を聴きたくなったのだ。


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この映像の元は1992年10月16日、マディソン・スクエアー・ガーデンで行われた「ボブ・ディラン/デビュー30周年記念コンサート」のリハーサル 風景を映したもの。ニール・ヤングがオルガンを弾きながら切々と歌っています。

ニール・ヤングの歌をバックに映し出されるかつてのロック・スターも老いが否めず、人生の悲哀を感じさせる、何度見ても泣ける映像です。

この『♪フォー・エヴァー・ヤング』、実際のステージでは時間の関係で歌われなかったと いう貴重な記録です。

以前のホーム・ページでも使ったネタですが、改めて加工し直しましたのでどうぞご覧下さい。

ひとりYouTube

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2008年2月15日 (金)

フエのオーム

倉敷の町並みを思い起こさせる古都ホイアンを朝8時に出たバスは一路フエへと向う。

フエ

ベトナム最後の王朝、阮朝(1802〜1945)の都が置かれた町フエ。かつてユネスコのアマドウ・マボウ氏はフエを「賞賛すべき建築上のポエムである」と語ったが、その言葉はズバリとこの町を言い表している。ゆったりと流れるフォーン川のほとりに、王宮、寺院、皇帝廟と風格ある建物が点在する、落ち着いたたたずまいの町だ。これら古の建造物群は、1993年にベトナム初の世界遺産に登録された。

(『地球の歩き方 ベトナム編・ダイヤモンド社』より)

私の後部座席には、白人夫婦と高校生くらいの娘中学生くらいの息子の4人家族が占めました。娘は座るなり富士通のパソコンを取り出しディスプレイを見つめたまま、息子は任天堂のゲーム。その家族を特に観察していたワケでもないけれど、フエに着くまでのあいだこの家族が交わした会話は途中のトイレ休憩のときに母親が何か声をかけ、娘が「ウ〜」と応じただけという、コミュニケーションの無い家族でしたね。余計なお世話だけど。

ホイアン→フエは4時間程度のバス旅で済んだんではなかったかな。楽な移動でした。

フエのシン・カフェ前にバスがつくと、タクシードライバーやらホテルの客引きが群がってきて、その中から「1泊朝食付き20ドル」というホテルの客引きと一緒にホテルに向う。彼はホテルのフロント係だというので若干信用したワケです。ホテルはここから歩いてスグだという彼の後についていくと、、、、。

ギョッ!!!
オームのお出迎え!!!

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プノンペンのオーム
サイゴンのサイババ
フエのオームと
オームさんも
ようやるワ!!!

インドカレー屋のオーム印の看板の手前を左に入ってすぐの所にあったのが目指すホテル。「20ドルのホテルはアイニク満室で、いまは25ドルの部屋しか空いていない」というおキマリのトークに「20ドル朝食つき」と言いくるめてチェックイン。広く明るい部屋にツインのベッド、日本語対応パソコンに大きな湯船つきという20ドルにしては満足できる部屋。

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熱いお湯に入りリラックスしてから、パソコンに向いメールチェックし返事を書いたり、たしかここからブログの更新もしたんではなかったかな?優雅なひと時を過ごして、お腹も空いたところで、オームの看板かかげたインドカレー屋へ。オームに対面したからにはアイサツしないワケにはいきません。

ベジタブルカレー 5ドルなり。

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デリー出身だという若いインド人オーナーのハナシでは、この店は前に彼の兄が経営してたものを引き継いだのだといいます。

店に遊びに来ていた女の子を記念撮影。
(こういう顔の日本人もいますネ)

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インドカレー屋で出会ったオームというのも
当たり前すぎてグレードとしては低いけれど
名刺ももらってきたので
一応アップいたしましょう。

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ベトナムのフエにお出かけのときは
ぜひお立ち寄りください。
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オーム 
シャンティ

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2008年2月14日 (木)

古都フエにて

1963年6月11日、サイゴンのアメリカ大使館前で一人のベトナム僧侶がガソリンをかぶり焼身自殺を遂げた。当時の南ベトナムのゴ・ディンジェム政権による仏教徒への迫害に抗議したものだった。

強靭な精神力によるものか、それとも人智の計り知れないナニモノかの意図があったのか、全身を炎に包まれてもなお結跏趺坐を崩さず天に還ったその姿は全世界に衝撃を与えた。

RAGE AGAINST THE MACHINE
(レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン)
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『一人の坊さんがバーベキューになっただけでしょ!』

この焼身自殺に対して、当時のゴ・ディンジェム大統領の義妹マダム・ニューの放ったこの言葉は、民衆の怒りを買い反政府感情が一挙に高まり、ベトナム戦争をより複雑にしていくことになった。

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焼身自殺した僧が、ベトナム中部の町フエのティエンムー寺の住職で、そのお寺の境内には、お坊さんがサイゴンへ行ったときに乗ったオースチンがそのままの形で保存されています。お坊さんがティック・クァン・ドックという名前だったことも初めて知った。

特にそのお坊さんのお寺を見に行ったことでもなく、たまたまフエ市内観光のバスに乗ったところ、そのお寺がコースに組み込まれていたわけです。

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そして壁にはこの写真。

車の奥の壁には「レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン」のレコードジャケットで見たことのあるショッキングな写真も飾ってあります。

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ガイドブックによれば、このお寺は1601年に建立された由緒あるお寺だとか。なるほど、本堂はその名にたがわず豪華な作りで、折しも見習い僧のお勤め中。

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日本のように丸坊主ではなく、前頭部分に髪の毛を残すのがベトナム式らしい。

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もしかするとベトナムの仏教徒は一時期を出家する義務があるのだろうか?

お坊さんといっても遊びたい盛りの子どもだから、無粋な観光客が気になってソワソワしたり、肘で隣りを突っついて先輩僧に睨まれたりする場面もあります。

マダム・ニューの暴言の背景には彼女がキリスト教徒だったこと、クーデターにより義兄の大統領と夫が殺害時もうまく国外脱出したものの、受け入れ国がなく彷徨ったというような当時の記憶が断片的によみがえってきます。最終的にどこの国に落ち着いたのか?そして、どこで死んだのか?は分からない。もしかすると、現在でもしたたかに生きているのかも知れません。

こんなことを思いながらティエンムー寺を出れば、45年前、意を決してこのお寺からサイゴンに向ったお坊さんがいたことなど、「ワシら関係ないもんね〜」という顔の肉まん売りのオヤジさん、フォーン川をバックに待ち構えるフエの夕方でした。

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2008年2月13日 (水)

マイ・ファニー・バレンタイン

“女性が意中の人にチョコレートを贈る日”とされるバレンタインデーは、このチョコレート屋さんの50年前のアイディアが定着したものらしい。

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たぶん大方の女性もバカバカしいと思いながら、ナガレに乗ってチョコレート選んだりしてるんでしょうネ。また、貰う方も“100%義理”と分かりつつも、「今年は何個かな?」などと胸算用してたりして。

いずれにしても、「パリの友人から、その日に贈りものをする習慣がある」という一言から思いついたアイデアが、今では老若男女を巻き込んでのプレゼント狂想曲へ、さらに“お返し”のホワイトデーと、往復で金儲けしちゃおうと・・・イロイロ考えつくアタマの良い人がいるものです。

毎年この日は義理チョコが1個か2個で、ホワイトディーも無関係なヤジオだから、ヒガミも込めて書いているけれど、私にとってのバレンタインデーは『♪MY FUNNY VALENTINE』という、ジャズのスタンダード曲に尽きます。この超有名なスタンダード曲の歌詞は2月14日もチョコレートも関係ないが、世間で“バレンタイン!バレンタイン”と騒がれる季節には聴きたくなる曲です。

『♪MY FUNNY VALENTINE』といえば、やはりマイルス・ディビスの60年代の名演奏に尽きるけれど、チェット・ベーカー(1929-1988)の演奏も捨てがたいものがあります。マイルス・ディビスは改革者として名を残し、チェット・ベーカーは、ラッパ一本サラシに巻いて過去の名声を頼りにバンドを渡り歩き、最後にはヤクで自爆したことで名を残したトランぺッター。

一時期はマイルスをしのぐほどの人気があったチェット・ベーカーだけど、ヤク癖克服できないままヨーロッパに逃れ、アムステルダムで客死した破滅型トランぺッターの生涯は、チマチマとした生活に追われるだけの私には憧れを感じるのです。

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それでは、本日のひとりYouTubeは、チェット・ベーカーが亡くなる一年前の日本公演から、聖バレンタインデーにちなんで、『♪MY FUNNY VALENTINE』を聴いてもらいましょうか。もはや老いさばらえて立つこともシンドクそうな永遠の不良少年チェットの最晩年の映像です。

演奏時間12分と、ちょっと長くなりますがもうひとつのバレンタインデーを味わってみてください。

ひとりYouTube

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MY FUNNY VALENTINE
CHET BAKER IN TOKYO

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1987.06.14
東京・人見記念講堂

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CHET BAKER tp.
HAROLD DANKO p.
HEIN VAN DER GEYN b.
JOHN ENGELS ds.

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2008年2月12日 (火)

ホイアン広場の夜は更けて

ホイアン(HOI AN)

チャンパ王国の時代には中国とインド、アラブを結ぶ中継貿易都市として栄えた。その後、16〜17世紀にかけては阮朝(ぐえんちょう)の交易の中心地として繁栄し、アユタヤ、マニラと並んで日本人街も造られていた。

最盛期には1000人以上の日本人が住んでいたといわれるが、今では市内にある来遠橋(日本橋)や、郊外の日本人の墓がわずかにその面影を残しているのみである。1999年、古い町並みはユネスコの世界遺産に登録された。

    (『地球の歩き方'07〜'08 』ダイヤモンド社より)

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2008年2月11日 (月)

ホイアンへの夜行バスはキツかった

『地球の歩き方〜ベトナム編』によれば、ベトナムの面積は日本の約90%とのこと。南シナ海に沿うように南から北へ細長く伸びているベトナムをホーチミンから首都ハノイに至るバスルートは、ちょうど日本の本州を山口から青森まで縦断するような距離に思える。

シン・カフェの「オープンツアーバス」というコースはホーチミン←→ハノイ間のチケットを買えば、一挙に始発地から終点地まで行くのも可能だし、途中下車して観光後、次の目的地目指して後発のバスに乗り継げるという便利なシステム。もちろん同一ルートをバックは出来ず前進あるのみ。

私が選んだのはホーチミン→ホイアン→フエ→ハノイというルートで27ドルだから、ホーチミン→ハノイ航空便の約3分の1の料金になります。長時間の窮屈なバス移動さえ厭わなかったら、ベトナム中部北部のローカルな景色に接するという点でお薦めルートです。

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朝7時30分にホーチミン・デタムストリートを出発したバスは、整備された国道1号線を北上。昼ごろになって海が見えたと思ったらここがムイネ(MUI NE)。メコン川の茶色い流れとは異なり、海の青さ波の白さがまぶしく、なによりも無限に広がる水平線が気分を解放してくれる。

ムイネのシン・カフェオフィス

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このあたり、リゾート地として開発が急ピッチで進んでいるらしく、リゾートホテルがビーチサイドに沿って並んでいる。豪華リゾートホテルだけでなく、経済的旅行をしようというお客には、それなりにランクを下げたミニホテルやレストランなども多く見える。

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バスの乗客は予約してあるホテルを事前に申告しておけば、そのホテルまで送ってくれるらしく、ホーチミンを出たとき満席だったバスは、ここムイネーのホテル前でアッチに止まりコッチに止まりと乗客の半分が下車。こんなところからも、ムイネーが欧米人にはすでに知られたリゾート地だということが想像できる。今でこそ純朴さを残している感じだけれど、たぶん数年後にはバリ島のクタビーチ並に俗化される予感がします。

右に南シナ海、左にハノイ/ホーチミン間の鉄道線路を見ながら更に北上すると、こんなガチョウがのどかに出迎えてくれる海辺のドライブインでトイレ休憩したり、快適なドライブが続きます。

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夕方5時に着いたのがニャチャン(NHA TRANG)の町。バスはこの町でホイアン行きに乗り換えなければならない。実は目的地ホイアンまで何時間かかるのかも確認しないでこのバスに乗ったもので、ここからさらに12時間バスは走り続けると聞いて、ゲンナリとしたところ。

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シン・カフェのオフィスに荷物を預けて、次のバスが来るまでの間ニャチャンの町を探検。町には由緒ある風情のホテル・レストランや骨董品屋が並び、どうやらベトナムのリゾート地としてはこの町が先発らしいことが理解できる。そんな観光地にもかかわらず、ホーチミンと比べてここの住人はスレていないのが分かる。ホーチミンを出てから12時間しかたっていないけれど、細長いベトナム国土の北から南まで、地域性が人情に影響を与えてるみたい。

そんな繁華街の一角に、OH!ニャチャンのブックオフ!土産物屋の片隅に日本人旅行者が置いていった文庫本が並んでいます。

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やがてホイアン行きバスが到着。乗客が増えることもなく座席がガラガラなのが嬉しい。

バスのクーラーが悪かったのかちょっと風邪気味。眠れないにしても眠ったフリをしてごまかそうと厚着に頬かむりで窓際に寄りかかっていたら、それでもいつのまにか眠ったようだ。ひっきりなしのギヤチェンジとブレーキの音で目が覚め真っ暗な窓外をうかがえば、バスは峠越えの最中。ヘッドライトに映される道路は日光いろは坂並みの難所のよう。

活発な経済活動を象徴するように貨物満載の大型トラックとスレ違うたび、「このまま崖から転落したらオワリだなぁ」などと思っているうちにいつのまにかまた眠ってしまい、次に眼が覚めたときは夜も明けて、無事ホイアンに着いていた。

バスが停まったのはホイアン郊外の小さなホテルの前で、バスに乗り込んできたホテルスタッフの「1泊朝食付き20ドル」のアナウンスを聞き、さらに町の中心地まで行くのも面倒くさくなって即決。他の乗客は全員町の中心まで行くという。たぶん安いホテルのリストを持っているのでしょう。

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左の女性がバスに乗り込んできたフロント係

私はホーチミンから24時間のバス旅で疲れてしまい、とにかく熱いシャワーを浴びてしばらく横になりたい気分だったのだ。

ここで突然出てくるのがカン君。

彼はホーチミンからのバスで隣同士になった青年。ホーチミンの学校へ行っていて、新年の休暇で故郷のホイアンへ里帰りするのだといいます。お互い拙い英語でコミュニケーションを計り仲良くなったもの。彼に「ホイアンは以前北ベトナムだったのか?南ベトナムだったのか?」と訊いても、私の質問の意味が理解できない様子。ベトナムがムカシ北と南に分断されて、アメリカと戦争して・・・というようなことは彼らの世代では関係ないのかも知れないなぁ。もはや、大方のベトナム人自体がベトナム戦争など、これまであったイザコザの歴史のひとつていどのこととして忘れ去られたのかも知れないと勝手に解釈。

「ホイアンで何か困ったことが起きたら・・・」と電話番号書いたメモを別れ際に渡してくれた好青年でした。

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バスタブに熱いお湯を満たし
身体をクラゲにして揺られ
あまりの気持ち良さに
これだったら1泊50ドルの価値があるなぁ
かつての妥協しなかったバックパッカーも
35年を経てヒヨッてしまったゼッ!
そんなことを思った
ベトナム中部の町ホイアンの朝でした。

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2008年2月10日 (日)

サイゴンのオーム

ベトナム戦争以前の、ベトナムを舞台にした映画というと『インドシナ』『愛人・ラマン』を思い浮かべます。その映画によってベトナムはかつてフランスの植民地だったことを知ることになります。そんなフランス植民地時代のなごりというと、やはりフランスパン。固いバケットを二つに割、中に野菜やチーズを挟めば立派な食事として成立します。フランス食文化の基本が現代ベトナムの生活に欠かせないものになっているようです。

これは一見して汽車の駅のように見えるけれどベトナム中央郵便局の建物。フランス植民地時代の19世紀末に建てられたものらしい。

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内部には精緻なデコレーションが施された、正にフランス人のセンスが光る建物です。そんな歴史的建物だけど博物館などとして保存されてるだけでなく、現在も郵便局として機能していることが素晴らしいところです。

映画『インドシナ』は大ゴム園の農場主カトリーヌ・ドヌーブと養女の、オトコを廻る相克が描かれていたけれど、あの映画の中にターバン巻いたシーク教徒のお抱え運転手がチラッと出ていました。「フランス人にくっついてベトナムまで渡ったインド人もいたんだなぁ・・・」あの映画を観てそんなことを思ったワケです。

ホーチミンで、安宿、レストラン、土産物屋、旅行代理店の密集するデタムストリートを冷やかしていると、インドレストランらしいけれど、ミョーな看板の店があります。もしかするとこれはオームマークではないだろうか?

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気になって看板を見ていると、奥から若い男が出てきてニコヤカに笑いかけます。

この男、ターバンこそしていないけれど、ヒゲの濃さといい、モロにシーク顔。「これはオーム・プラナヴァ?」。私の問いにそのシーク顔は「そうです。これは私たちにとってのオームなのです」という答え。「そうか!シーク教徒のオームか!。アムリツァ!グル・ナーナク!」というと、シークは嬉しそうな顔をして店の中に戻っていったのでした。

映画『愛人・ラマン』は裕福な中国系ベトナム人と没落フランス人ゴム農園主の娘の恋物語で、「ホントに好きな人とは結ばれない・・・」という、いかにもフランス映画らしいテーマ。

あのフランス統治時代から何十年を経たホーチミンの中国人街を歩いていると、こんな結婚式の風景。これみよがしに厚化粧の嫁ハンを披露しています。

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想像するに、こういった中国人成功者が大型テレビを買い、パソコンを買い、日本製大型車を買えるクラスなんだな。『愛人・ラマン』の時代から、ベトナム戦争の時代を経て現在に至るまで、ベトナムの経済は常に中国人が握っていることが理解できます。

さらに歩いていると、向こうのレストラン入り口で若いネーちゃんが手招きしています。「ここに座れ!!」というから、安っぽいパイプイスに座ると、ネーちゃん、奥から「地球の歩き方」を持ってきやがった。それも2008年の最新版だ。


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ネーちゃんにはワルイけれどこの写真だけがなぜかピンボケ

なぜ「地球の歩き方/ベトナム編」の最新版を持ってんだ?。もしかすると撮影協力のお礼に出版元ダイヤモンド社からプレゼントされたものか。

結局ネーちゃんの術にハマって、「地球の歩き方」のベトナム料理カタログを見ながら注文しての夕飯になってしまった。

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食べ切れないほどの量。これで8ドル。

食べ切れないかな?と思っても大食いの私は完食。

腹ごなしに夜のホーチミンを歩けば、バイクタクシーの運ちゃん「マッサージ?ガール?」と耳元で囁くかと思えば、オートバイの後部座席に跨がった厚化粧お姐さんがニコヤカに笑いかける。ベトナムは一応共産主義国なんだろうが、アノ道にかけては共産主義国も資本主義国も変わりはない。

ミョーな匂いの発する建物が気になって高い塀をグル〜っと廻ってみれば、♪何だナンダ!ゴーパ〜ラ〜!ヒンズー寺院の入り口へ辿り着いた。恐る恐る内部を覗き込んでいると、中から寺男が出てきて訝しげな視線。

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異国の地で、異教徒が入り込んできたから打ち首にしたと言われても困るから、「やぁ、オレは日本から来た、サティア・サイババのディボーティだ!」などとテキトーに名乗ると、表情を和らげた寺男の指差した先には、ナッ!ナッ!ナンとチャパティ!サティア・サイババの写真が飾ってるじゃありませんか。

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おまけに
シルジのサイババの写真も。
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写真からビブーティが吹き出していたりしたら、ハナシは劇的に盛り上がるのだけど、そうはウマクいきません。思いもかけなかった両聖者との出会いに驚き、今後の旅の安全を願って丁重に礼拝して立ち去ろうとしたら、さっきの寺男が祭壇から2個の果物を取り出して持たせてくれたのでした。

ベトナム社会での
シルジ・サイババ
サティア・サイババ
の評価は分からないけれど
まさか
ホーチミンで対面するとは思わなかったぜ。
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思えば
プノンペンで鉢合わせしたオーム男といい
ホーチミンで対面した両聖者といい
オームを引き寄せているのか?
オームに引き寄せられているのか?
出会いに奇妙なものを感じたワケです。
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ホテルに戻り
さっき寺男からいただいたプラサドを
ありがたくいただいた
ホーチミン最後の夜でした。
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明朝は首都ハノイを目指してバスに乗る。
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オーム
シャンティ

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2008年2月 9日 (土)

サイゴンのマックとトーキョーのマック

ベトナム人はホントに小柄、こんな体躯の人たちが、全ての面で圧倒的パワーをもつアメリカをへこませることが出来たんだろうと不思議な気がします。やっぱり人間はガタイじゃぁないネ〜!最後には精神力がモノいいますよ。

夕方のベンタイン・バスターミナル近くの公園では、仕事を終えた女性陣が“ビリーズブートキャンプ(?)”の実践中。どこの国でも女性のパワーには圧倒されてしまいます。

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同じく、ベンタイン近くに派手なネオンサイン輝くビルがあるのに気がついて行ってみれば、これがホーチミンの“ヨドバシカメラ”というワケ。入り口の両側にはこんな人たちがニコヤカに出迎えてくれます。“和服もどき”の右側の女性、私が日本人だと察すると、照れることテレルこと。そんなお嬢さんを言いくるめて写真をゲット。

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店内は“ヨドバシカメラ”や“ビックカメラ”を研究したかのような商品陳列方法で、日本ブランドのテレビなどが壁を埋め尽くしています。経済発展中とはいえ、建物の外には貧しい東南アジアの景色が広がっているから、「こんな高額商品を買う人がいるのか?」と思えます。しかし、店内のお客は真剣に品定めをしているのをみると、ベトナムでもやはり「格差社会」なのかな。

2階のパソコン売り場にも日本ブランドが溢れています。このパソコンにしても一般のベトナム人にとっては縁のない商品のようだけど、ちゃんと購買層が形成されているらしい。国家がいくら情報流入を規制しようとも、こんなふうにインターネットや衛星放送を通じて世界各地の情報を入手するクラスはいるのでしょう。

OH!!!
これは珍しい
アップルMacBookではありませんか。

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店員に値段を訊くと「23万円デス」と日本語での返事。ウィンドウズマシーンよりかなり高めのMacBookはベトナムでどんな評価を受けているのか訊いてみたけれど、この店員の知ってる外国語は日本語の数字の読み方だけ。詳しいハナシまで聞き出すことはできませんでした。

これまで旅した東南アジアでは全てのパソコンはウインドウズマシンで、マックを見かけたことなどなかったのでマックファンには嬉しい景色でした。

日本のヨドバシカメラも、ここ“ベトナムのヨドバシカメラ”も、店内に入ったときに感ずるあの一種独特の高揚感は同じものがありました。

Sikiri

さて、ベトナムから帰ってきてから読んだ、アップルの総帥スティーブ・ジョブズが発表した“世界最薄型”MacBook Airについての新聞記事については、以前書いたけれど、結局私も乗せられて買ってしまいました。

その“世界最薄型”が届きましたよ!!!。

MacBook Air

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MacBook

このように2台のマシーンを重ねてみると、その薄さが理解できようというもの。

詳しい仕様について説明できるだけの知識はないけれど、とにかく、軽くて薄くて、サブマシーンとして持ち歩く者には嬉しいマシーンです。


不思議なもので
新しいMcBook Airを予約したころから
これまでのMacBookのメール送受信の不具合が続いて
器械といえども
やはり
「主人のココロは自分から他に移った」
ということを察して拗ねているんだろうな〜
と思ったワケです。
そんなことで
旧マシーンを下取りに出そうか?出さないか?と
迷っているところです。

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2008年2月 7日 (木)

ミトーのバンドはちょっとワケあり

ホーチミン市デタムストリートの朝7時は、サイゴン陥落時のアメリカ大使館並みに血走っていた(映画でしか知らないけれど)。この狭い道路に各旅行代理店の主催するツアーバスが集中して、旅行者が自分の乗るバスを求めて右往左往するというワケです。

私もまたシン・カフェの「ミトー・メコンデルタ日帰り」ツアーバスを探してさっきまでウロチョロしていました。7時30分発予定のバスが出発したのはけっきょく8時過ぎ。マッ!急ぐ旅でもないからそれもヨシとしよう。

ベトナムの観光スポット・メコンデルタには「日帰り」「1泊」さらにディープな「2泊」、それらに国境を越えてカンボジアまで至るコースを組み合わせたものと、それぞれの旅行会社が多数のツアーを組んでいる。このカンボジアルートが最初から分かっていれば私の今回のバックパックの旅のルートもちょっと変わっていたことでしょう。いまさらそんなことをいっても仕方ないけれど。

メコンデルタの入り口ミトーはホーチミンからバスで約3時間南に下った場所。船着き場でボートに乗り換えて、茶色い水を満々とたたえたメコン川?へと乗り出す。川風が気持ちよいけど日差しはかなり強い。旅に出てまだ1週間ていどなのに腕時計のあとがくっきりと残っている。

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メコンクルーズの小さなボートはジャングルの中に分け入る。中州のような島へ上陸してしばらく歩けば、こんなふうにライスペーパーを作る実演をする女性がいたり、

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さらに奥へ行くと、頭に花飾りをしたポニーの曳く馬車に乗せられて、

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着いたのはココナッツミルクキャンディーの製造工場。完全手作りの原始的な方法でキャンディーを作っています。
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さらに進めば蜂蜜の採取場。

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そして、大蛇が出迎えてベトナムオジさんをヒーヒー言わせて喜ばせて、

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マムシ酒を売りつけようという魂胆。

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すべて、土産物を買ってほしいという設定だけど、押し付けがましさのないのがよい。コッチは最初っから土産物には関心ないから試食品をご馳走になるだけの金にならない観光客。

「次に行きます」の声に誘導されて小舟に乗り換えれば、小さな櫓を器用に操るお母さんはひたすらジャングルの奥へ奥へと進みます。

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そうすると!!!
ジャングルから

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こんな人や

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こんな人が

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現れることもなく
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無事に島へ到着してお茶なんぞをご馳走になっていると、バンドが現れてチューニングがメチャクチャの楽器に中国風メロディーというワケのわからない音楽で歓迎式典。

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ン・・・・・・・・。

よく見ると、ギターは5弦、ギタリストは4本指という・・・これはまたベトナムのジャンゴ・ラインハルトだッ!!!

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そのことに気づくと、ワケのわからない音楽も、何やら革新的な音楽に聞こえたりして。

そんなことないか!

最終的には帽子が回ってきて「心付けを・・・」という段取りのようだから、一応僅かのベトナムドンを帽子に投げ入れる。

バンドの連中が仕事を終えて離れた場所でハンモックに揺られているのをさりげなく観察していると、さっきの歌姫が、集めたチップをベトナムジャンゴに差し出し、ジャンゴがそれをオモシロクもなさそな顔で受け取り胸ポケットに入れるのを見てしまったのだ。

なるほど、あのベトナムジャンゴがバンマスということだったのか。

それにしても
このバンドマン
バックグランドが想像できる
ヒトクセもフタクセもある顔をしてるぜ!!!

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2008年2月 5日 (火)

道路横断いのちがけ/ホーチミン市

ベトナム・ホーチミン市(旧サイゴン)でのバックパッカーの第一のメッカはデタム通り(De Tham St.)ということになります。ここに行けばホテル、レストラン、ツアーとバックパッカーの求める情報は何でも手に入れることができます。

私の泊まっていたNEW HOTELはサイゴン川近くのため、デタム通りへの土地カンをつかむために、スリ寄ってきたバイクタクシーを止めると、このオジさんノートブックを取り出して、ベトナム語で説明を始めます。

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どうやら、何年か前に知り合った日本人旅行者が、このバイクタクシーのオジさんのために推薦文のようなものを残してくれたらしい。

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彼のアイデアは買うけれど、どうもその目つきにアザトイものを感じて「グッバイ!」とスルー。

次にスリ寄ってきたバイクオジさん。「デタム ストリート!!!分かるか?!」。私の問いかけに「OK!OK!」と笑うだけのオジさんと若干の値段交渉の末、後部席の客となる。オジさん、運転 しながらひっきりなしに私を振り返って話しかけるから、オヤジ!オレのことは良いからチャンと前を見ろよ!!!。とにかくバイクで大混雑の道路だから危なくっ てしかたない。

けっきょくこのオジさん、、、オジさんといっても、たぶん私より若いんだろうが、デタムストリートのことを知らないままカンで走っていたのだ。

バイクを止めて英語の話せる通行人を探し、私が英語で目的地を話して、通行人がベトナム語でバイクオジさんに場所を説明するという手順で、オジさんやっと こさデタムストリートの場所を理解。「ここだったら最初っから分かっていたよ!!!」という顔で陽気に笑って立ち去ろうとするから「オヤジ!ちょっと待 て!その前に写真撮らせろ!!!」。


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ベトナムではバス網が発達していて国内から隣国カンボジアやラオスまで網羅しています。バス会社のオフィスは、例えばシンカフェ、キムカフェのように「カフェ」と呼ばれ、その「カフェ」周辺にホテル・レストランや旅行代理店など、旅行者の求める施設が発展してバックパッカーの街として知られることになるわけです。

いま到着してホテルの客引きとやり合っている者、これから次の目的へ向ってバスに乗ろうという者、そんな連中を脇目にして商店を冷やかせば・・・オー!これぞベトナム版ブックオフ!日本人旅行者が置いていったものか文庫本などが重ねてあります。

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それにしてもベトナムへ来てまで「建設業界への最終通告」などという本を読みたいかね〜。人それぞれだから、まぁいいか?

そこに立ってても先に行けないんだから!

ハラを決めて来いよ!!!

突然飛び込んできた日本語にビックリして振り返れば40代の日本人が3人。道路を渡り切った1人が、道路中央で立ち往生して動けないでいる2人に声をかけている。確かにホーチミンの道路はバイクの数が多すぎて、道路横断に慣れるまでタイヘンなのです。なにしろ横断歩道路なんてないし、もしあったとしても日本のように「歩行者優先」などというルールが確立されているかどうかわからないから、バイクの波を上手にかきわけての道路横断になります。

慣れないうちはどうしても途中で立ち止まってしまうけれど、これが一番危険なのです。渡る!!!と決断したら、そのまま躊躇せず一定のスピードで歩き出すことです。バイクは前方の通行人の進路を予測してスピードを調整するだけで、通行人が立ち止まるという予測は立てられないのです。

どうなることかと道路中央の2人を見ていたら、連れの励ましが効いたのか意を決したかのように手を挙げてバイクの流れに踏み込み、無事渡り切ってしまいました。スイスイと道路横断ができるようになったころにはホーチミンともお別れ、日本への帰国の途につくことになります。あの2人にはこの道路横断が他の何よりも土産話になることでしょう。


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東南アジアのバイク事情は聞いていたけれど、ベトナム・ホーチミンがこれほどとは。

信号が変わると同時に攻守入れ替わるようにバイクの流れが変わります。正に津波のように押し寄せては引いていく感じ。ほとんどのドライバーがマスク姿。そのマスクもよく観察すると、それぞれにお気に入りのキャラクターが刺繍してあります。この通行量の中を毎日走っていたのでは身体を悪くしますワ。

これだけの交通量だから「バイク対人間」「バイク対バイク」のヒヤッとした瞬間もあるけれど、不思議なのは、こんなときでも互いの非をなじってやりあうという場面を見かけられなかったこと。「毎日のことだから一々やってられない」ということなのか、それとも諍いを好まない国民性なのか。やっぱり、ベトナム人は一筋縄ではいかない民族のようです。

ホーチミン最大の観光ポイントはラッシュ時のバイクではないか?と思えるくらい、このバイクの洪水にはカルチャーショックを覚えたのです。でも、考えてみれば新宿駅の朝のラッシュ時の乗降客の津波の方がインパクトあるかな。

それでは
ファングーラオ通りと
グエンタイフォック通り交差点での
バイクのデモンストレーション動画がありますから
見てもらいましょうか。
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2008年2月 3日 (日)

花はどこへ行った

昨年12月NHKハイビジョンで興味ある再放送がありました。

かつて、NHKで放送された番組の中から、五木寛之さんにとって印象深い番組を五木さん自身の解説も含めて12時間に渡って再放送しようというもの。

その中の『花はどこに行った・祈りの反戦歌』は、NHKらしい丁寧な取材で、反戦歌として知られる『花はどこへ行った』の生い立ちを浮き上がらせていて、私にとっても「もう一度見たい番組」として放送日を待ちわびたわけです。

五木寛之と過ごす・ハイビジョンの一日
“旅と青春”への思いを存分に語る12時間
自ら選ぶ珠玉の番組でたどるその人生とは・・・・

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2007.12.16(日)

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『花はどこへ行った』が重要な意味を持たされるのは、ベトナム戦争さなかに若き米軍兵士が戦車に寄りかかり、この歌を歌う姿が放送されたことだったといわれます。それ以来『花はどこへ行った』は、作者のピート・シーガーの手を離れて、反戦歌として一人歩きすることになります。

つまり、自分たちに無関係な遥かアジアの片隅のイザコザだと思っていた戦争が、実は自分たちの戦争で、明日は自分も招集されることになると感じ取り、“厭戦・反戦”ムードが一挙に高まったからだといいます。

そして、『花はどこへ行った』はドイツに飛び火して意外な展開を見せます。

ドイツ出身の女優マレーネ・ディートリッヒは、反ナチの立場からドイツを捨てたことで、“祖国の裏切り者”としてのそしりを受けることになり、そんなディートリッヒが『花はどこへ行った』をドイツ語で歌ったことで、祖国に受け入れられることになります。


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さらに時は移り、1994年のリレハンメル冬期オリンピック。

引退した、かつての“銀盤の女王”東ドイツ出身のカタリーナ・ビットが統一ドイツの選手として復活。『花はどこへ行った』に乗せ戦争の悲惨さを訴えるメッセージは大観衆の心を打ちます。


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たかが歌だけど

もしかすると

その歌が

少しでも世界を動かすキッカケになるかも知れない。

60年代半ば、ピート・シーガーが、ロシアの作家ショーロフの『静かなるドン』の中の一遍の子守唄をヒントに作った『花はどこにいった』が、やがて、作者が想像もしなかった光を発し反戦歌として重要な存在になっていく過程を見て、こんなことを思ったのです。


ベトナムで、戦車によりかかって『花はどこへ行った』を歌う若い兵士の映像がアメリカ国民に衝撃を与えてから40年。

私の持っているアメリカンブランドの靴やバッグ・衣類のタグをひっくり返せば「MADE IN VIETNAM」の文字が簡単に探し出せるし、現在のベトナムでは一般にアメリカドルが流通し、かつてこの国とアメリカが戦争していたことを感じさせるものは少ない。

かろうじて、『クチトンネルツアー』という観光客向けツアーにベトナム戦争の面影が残っているくらいか。これはベトナム戦争当時ベトナム解放戦線が張り巡らした全長250kmの地下トンネルを見学しようというもので、これとて、もはやエンターテインメントとなっている。

ホーチミン市内に『戦争博物館』という施設があって、ベトナム戦争の歴史を戦争遺物や写真パネルで紹介しているもの。反南ベトナム政府の人間を拷問に科した器具とか、枯れ葉剤による奇形児のホルマリン漬けなども展示してあるが、ベトナム戦争の悲惨な実体を表現しているとも思えない。もしかすると、経済発展という“実利”をとるためにはアメリカを刺激したくないというベトナム政府の手加減なのかもしれません。

展示物の中にこんなコーナーがあります。

ベトナム戦争のさなか、日本からベトナム解放戦線支援に送られたビラとかポスターの展示物です。私は特にベトナム支援の活動をした者ではないけれど、懐かしい印刷物です。

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東京のどこかの街角で見たことのあるようなポスターだと丹念に見ていると、後ろからこんな声が聞こえます。

男「ねぇ、学校でベトナム戦争のこと習った?」

女「おぼえてな〜い?」

男「やっぱり?ボクもおぼえてないんだよね」

さりげなく後ろを振り返れば健康そうな若い日本人カップル。それ以上ハナシがつながることもなく、次の展示物へと移っていきました。学校で習わなくっても、こうして戦争博物館を見に来ただけでも上等上等。

私たちが彼らの世代のときも
ベトナム戦争について学校で学ぶことはなかったけれど
「アメリカはベトナムから手を引け」の立て看板だとか
反戦集会反戦フォークなどの言葉から
自然とこの戦争のうさん臭さを学習していました。
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「共産主義から自由主義を守るため」
こんな大義のもとにベトナムに侵略したアメリカは
ベトナムなんてすぐに潰せると思っていたのでしょう。
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しかし
侵略する側の大義はどうあれ
他国への侵略は侵略
侵略された側の大義までは読み切れなかったようです。
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そしていま
40年前の学習効果もなく
ただオイル利権を守りたいがための
一片の大義も見つけられない侵略から抜けられなくなっているんだなぁ。
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意に反して
イラクに駐留することになったアメリカ軍兵士たちは
『花はどこへ行った』を
見つけられるのだろうか?
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そんなことを思いながら
「戦争博物館」の外に出てみれば
展示物の悲惨さとウラハラに
ノンビリと壁塗り作業中の
ホーチミン市「戦争博物館」
2008年正月でした。
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2008年2月 2日 (土)

氷も溶かすロマンス

鼻がムズムズすると思ったら「アッ!そうか!スギ花粉の季節か!」と思いついた。

寒い寒いと言っているあいだにも季節はどんどん移っていきます。

「つなぎ法案がドッタラ!コッタラ!」「中国餃子がアーシタ!コーシタ!」と、相変わらず読みたくもない記事ばかりの新聞だけど、昨日のこんな記事にはホノボノとさせられました。

2008.02.01 毎日新聞 夕刊

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日本女子フィギュアスケートというと、マオ嬢とかミキティー嬢ばかりが大騒ぎされているけれど、こんな日本人選手もいたんですね。

YouTubeにこのプロポーズのシーンがアップされていたので貼り付けました。

どうぞご覧ください。

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YouTube

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意外な展開に
観客も解説者も大喜びです。
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毎日新聞のコラムによれば
井上選手のこれまでの人生は
平坦なものではなかったとのこと
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それだけに
井上怜奈さんの
末永い幸せを祈りたい気分です。
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近頃では出色の動画です。

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2008年2月 1日 (金)

目指すはサイゴン

昨年末から今年正月にかけてのカンボジア/ベトナム旅行の、あ〜でもないコ〜デモナイをグダグダ書き続けてきたら、いつのまにか2月になってしまった。

昨日の新聞にこんなパック旅行の広告がありました。カンボジアの首都プノンペンにも、アンコール遺跡群のシェムリアップにも日本からの定期便は運行していないけれど、この広告にあるように関空からチャーター便が飛ぶことはあるらしい。

2008.01.31 毎日新聞朝刊

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このスケジュールを見るとアンコール遺跡群の名所は効率よく網羅してあって、価格もあんがい割安。無理にバックパッカーにならなくても、こんなパック旅行を利用するのも良い方法かもしれません。毎日新聞旅行に義理はないけれど、アンコール遺跡への行き方として紹介しておきましょう。

Sikiri

昨夜カンボジアの餃子屋で食べた「鶏唐ニンニク煮込み」は、字のごとく鶏肉とニンニクを土鍋で煮込んだもので、鍋の底にはニンニクの塊10個くらいがゴロゴロしているという、“ニンニクスタミナ神話”の刷り込まれているチャンジー世代には嬉しい料理。そのせいかどうか朝からパワー全開で朝立ち・・・はムリだけど、朝発ちというワケで急いでバックパックをまとめてバス停へ。ベトナムのホーチミン(旧サイゴン)行きのバスに乗るのだ。

ようやく明るくなりかけたバス停前の飯屋は開店準備中。

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少し待っていると出てきたのが、プノンペンでいつも食べていたこんな朝飯。

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プノンペンからホーチミン行きのバスには8ドル10ドル12ドルと何段階かあるようで、この値段の差はエアコンがついてるとかバスが豪華だとかによるらしい。私が予約したのは12ドルのこのバス。

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日本のリムジンバスのように車体が高く乗り心地が良い。女性バスガイドが乗り込んできて、カンボジア語と英語のガイドを始めるところなど、まるで飛行機のスチュワーデス並。

満員のバスは工事中でこんな土ぼこりの舞う道路をベトナム国境へと向かう。

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途中、メナカ(だったかな?)で川をフェリーで渡り更に国境を目指す。

朝7時にプノンペンを出たバスが国境の街に到着したのが10時30分ころ。ここのドライブインでご飯を食べたりトイレ休憩をしたり。

私はこの果物屋のオカミさんに余ったカンボジアリエルを全部渡してイチゴを買う。

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「ちょっと〜!ママ!もっとくれよ!」と言うと、

「これだけのお金じゃダメだっペッ!!!」と怒られたりして。

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こうしてそれぞれが思い思いに過ごしている間に、スチュワーデス風バスガイドは乗客のパスポートを集めて先に出入国手続きを済ませるという段取り。

カンボジア側国境には豪華カジノホテルがやたらと多く、これってあんがい経済好調成金ギャンブル好きベトナム人を呼び込もうという戦略だな。ドルはドル!ドルに共産主義も自由主義も無い!!!

カンボジア側ベトナム側双方の税関イミグレも特に難しいチェックもなく、約30分ほどで簡単に通過してしまった。国境越えの緊張感を味わうこともなく拍子抜けするほど。

ベトナムから見たカンボジア

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整備された道路がベトナム・カンボジアの国力の違いを感じさせる。のどかな田園風景からだんだんと都市に近づいていくのがオートバイの数からも感じられる。ここベトナムのオートバイはカンボジアと違いヘルメット着用の義務があるようだ。そうこうしているうちにバスは一瞬にしてホーチミンの迷路ののような道路と自動車ラッシュの中に紛れ込む。バスも車もオートバイも人間も牛もイヌもちょっとの隙間をみつけては突入。

「終点です!」でバスから放り出されてはみたものの、地図もないから立ち位置が掴めない。声をかけてきたタクシー運転手に「サイゴン川近く!30ドル!」と注文つければ「OK!OK!タウンセントラル!グッドホテル」の調子良い返事。けっきょく最後には50ドルくらいのホテルに連れて行くんだろう?と見ていたら、サイゴン川近くのミニホテルに到着。

フロント女性はすまなそうに「本日満室なんです」の返事。そのあと「少し待ってください」とどこかに電話して空き部屋があるかどうかを確認している様子。そして「ニューホテルの部屋が空いてるけれど、ここより少し高くて1泊45ドル朝食なしになります」。

私はこのニューホテルをホテルの名前だと思ったら、確かにNEW HOTELという名前だけど、なんと本日開店の新しいホテルで、「あなたが最初のお客だ」と言うじゃありませんか。なるほど入り口の豪華な花輪類は開店を祝うものだったんだ。フロントの準備も終わってないのが分かります。

最初のお客になるかどうか分からないけれど、とにかく部屋を見せてくれるか?とエレベーターで4階の部屋に上がってみると、フロアーでは職人がまだ工事中という有様。日本式に言えば、保健所や消防署の営業許可も得ていないというところだろう。

ワンフロアー3室の小規模なホテルで、窓からはサイゴン川も見える。これからホテル探しも面倒だから、もうイイヤ、決めちゃおう!

1泊40ドル朝食付き!
それと、ここまでのタクシー代はそっち持ちでどうだ!

相手は躊躇したようだったけれど「いいか!オレは日本ではラッキーマンと呼ばれているオトコだ!オレが最初のお客ということは、このホテルがこれから毎夜フルハウスということだ!」。私のメチャクチャ英語で相手にどのように通じたか分からないけれど、一応こちらの主張どおりに妥結。

ツインのベッド、貝殻風バスタブつき、そして、まだペンキの匂いの抜け切らない部屋。バックパッカーにしては不釣り合いのホテルにチェックインしたわけです。

開店準備中のホテルスタッフ
(日本人ではありません。ベトナム人です)

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これが、その本日開店のNEW HOTELの外観で、4階が私が泊まっていた部屋になります。


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マッ
相手は世界の超大国であるアメリカでさえも
「もう勘弁してくれ!」と音を上げたベトナム人民。
旅慣れたつもりの日本人が
値切った!ウマクやった!と思っていても
テキさんはもっと上手を行っていたかも知れません。
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でも
たまたま本日開店のホテルに
一番目の客として泊まったというストーリーは
けっこうオモシロイものがありました。

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