富樫雅彦さん逝く
「残暑見舞い」としてDIVAたちのパクリ動画を自動送信に設定して放っておいたけれど、本日の夕刊を見てしばらくぶりに更新する気になった。
毎日新聞夕刊
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富樫雅彦さんの凄さについて、山下洋輔さんは名著「ピアノ弾きよじれ旅/徳間文庫」の『おれはマジに音楽を語った/ギャラリー・ミーティング'65・渡辺貞夫との出会い』の章にこんなふうに書いています。

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1965年、アメリカ留学から戻った渡辺貞夫が日本のジャズ界に与えた衝撃を語り、その渡辺貞夫グループのピアニストとして抜擢されるも、ドラマーの富樫雅彦との確執から急に退団したことを恥じ、懺悔しているのです。
富樫は既に、我々の間では伝説上のプレイヤーだった。共演できるのは実に幸運なことだったのだ。(略)富樫はこのとき25歳。15歳のデビューからすでに10年経つ。同い年のプレイヤーは全てはるか後輩であり、同輩は皆かなり年上の人ばかり、という早熟の天才にのみ起こりうる特殊な状況の中で、富樫が本当は何を感じていたのかぼくには分からない。
が、同い年位の共演者達の熱心ではあるが、覆いようのない未熟さに対して、先輩プレイヤーとしてある苛立ちはあったろうと思う。その苛立ちをまともに受け止めるだけの度量が恐らく、ぼくにはなかったのだ。自分のことしか、考える余裕がなかったのだ。
これは渡辺貞夫リサイタル(1977年)のパンフレットに寄せた文章だけれど、渡辺貞夫に影響を受けながらも、「サダオのバンドなんかに負けるものか」という意地が自分たちの原動力だったということを山下洋輔は告白しています。
日本ジャズ創世時から、天才ドラマーとしてこれほど畏怖された富樫雅彦さんだったけれど、1969年の事故により下半身不随となる不運に見舞われます。
いまでは、富樫雅彦さんが元気だったころを知ってる人も少ないでしょうから、貴重な映像をお見せしましょう。これは東宝映画1968年作品『さらばモスクワ愚連隊/五木寛之原作/堀川弘通監督』に“酔いどれドラマー”で出演している富樫雅彦さんの珍しい映像です。
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ご冥福をお祈りいたします。
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