1974年にイタリア・シシリー島・パレルモから船に乗って北アフリカのチュニスへ渡ったことがありました。ちょうど夏の終わりの今頃の季節だったと思います。
たしかに『遠い太鼓』の中で春樹さんが書いたように、あのころからシシリー島は犯罪多発らしく、海岸へ行けば若い衆が集団で棒切れふりまわしてケンカしていたり、暗くなればパトカーだか救急車だかのサイレンが夜っぴて鳴っているような街で、「さすがマフィアの本拠地」などと納得した記憶があります。
私は1973年に旅に出たから日本ではコッポラの『ゴッドファーザー』は噂だけでまだ封切りされていなかったはずです。というのも、もしこの映画を観てからシシリーに渡ったのであれば、物見高い私のことですから、必ずコルレオーネ村に行ってたと想像がつくのです。
そんな物騒な街でも貧乏旅行者の私なぞが危険な目に遭うこともなく、夕方広場に行けばアッチコッチの屋台でくつろぐオヤジ連から声がかかり、ワインを振舞われたり、ワケのワカランものをご馳走になった楽しい思い出があります。30年くらい前のハナシですから世界全体がオットリしてたころだったのです。
泊まっていた安ペンションの隣室は毛沢東の巨大な写真パネルが貼ってあったから、たぶん、イタリア共産党パレルモ支部というような事務所ではなかったかと思います。こんな所で月に数回のチュニス行きの船を待っていたわけです。確たるアテがあったわけでもないけれど、地図に書いてある航路を頼りに「行けばなんとかなるんじゃないか」と期待してシシリーに来てみたら「なんとかなって」チュニス行きの船に乗ってアフリカの地を踏めたわけです。
チュニスから陸路アルジェ→カサブランカと、今にしてみれば結構変わったルートを歩いたわけだけれど、この当時の記憶というのが実に薄れているのがわかります。というのも、このときは旅を出て1年くらい経過していて、もはや私のアタマの中のハードディスクはそれまでの旅で経験した古いファイルで満杯、新しい物事を吸収するだけの容量はなくなったまま、ただの惰性で旅を続けていたようなものだったのです。
こんな、印象の薄い北アフリカだけれど思い出したことをひとつ書いてみましょう。
カサブランカでユースホステルを探していたとき一人の東洋人の青年から声をかけられたのです。彼と片言の英語での対話で(彼はベトナム人でフランス語が達者だと分かった)ユースホステルを探してると私が言うと「心配ない、ボクに尾いて来い!」ということになって、連れて行かれたのがベトナム料理屋。
店のベトナム同胞とも懇意らしい彼はキッチンから勝手に料理を運んできて「喰え!喰え!」と勧めます。旅先で受ける親切には身構える習性が身についたはずの私でも空腹には勝てず、久しぶりの醤油味のベトナム料理を貪るように食べ続けたのです。そんな私の食事を彼はお茶を飲みながら満足そうに眺めてるだけでした。
食べ終えた私が一応勘定を払うポーズをとると「心配するな」と受け取らず、「店の者に話しておいたから、食べたいときはいつこの店に来ても良いから」というのです。
そして、店を出て次に連れて行かれたのが、いかにも胡散臭い雰囲気の建物の事務所で、彼はそこから、調べたユースホステルに電話し場所を確認し、私の名前で予約して、地図まで描いてくれたのです。
「シャワーを浴びていけよ」
さぁ、来たな!ヤバイ!!!!!
ここまでくるとだいたい想像つくのが、シャワーの間に私のリュックサック共々彼が消えるか!あるいはホモか!
私のそんな怯えを察したのか彼は笑いながら私を上の階まで連れて行って中を見せてくれたのですが、そこはマッサージの店だったのです。危なッかしい感じは消えないけれど、奥のシャワー室らしい部屋から洩れる蒸気を見てしまうと、なんか、もう、どうでも良くなって、
「金でも!モーホでも!好きにしやがれッ!!!」
という気分。ホットシャワーの誘惑には勝てなかったわけだ。
染み付いた旅の垢を削るように身体をこすりシャワーを出て彼に呼びかけると、半開きのカーテンから顔を出した彼は「荷物はそこにあるから。又来いよ、バイバイ」と手を振ってくれたのです。ベッドには白人男性がうつ伏せで横たわっていて、彼はちょうどマッサージを施しているところだったのです。マッサージといってもイカガワシイサービスを伴ったマッサージということでもなく、今でいうところのスポーツマッサージだったのです。
どうして、ベトナム人がカサブランカくんだりでフランス人をマッサージしているのか分からなかったけれど、あとで考えれば元フランス植民地だったベトナムのマッサージ師が、同じく元フランス植民地のモロッコで、フランス人にマッサージするのも不思議なことではないでしょう。
カサブランカ滞在中に何回か彼を訪ねベトナム料理をご馳走になり、シャワーを使わせてもらったけれど、まったくお金を要求することも見返りに何かを求めることもありませんでした。彼はアジア人の同世代の旅行者をもてなすことが、同じアジア人としての義務であるというような美学を持っていたようにすら思います。それにつけ、彼の下心を疑いシャワーの後に財布の中身をチェックし、何か盗られたものはないだろうかと心配したりした自分を惨めに思ったものです。
「サハラ砂漠を縦断しようと思う」という私に、彼は「夏は危険だ!行くなら絶対冬にしろ」と強硬に反対し、それでもブラックアフリカへ行きたいという私に、彼はカサブランカ→スペイン領ラスパルマス→セネガル・ダカールのエアフランス最安値のチケットを見つけてくれたのです。
結局モロッコからサハラ砂漠横断の思いつきは、セネガルのダカールからアフリカ大陸を西から東に横断してケニヤのナイロビに着くルートに変更になったけれど、このときの貴重な経験も薄れたものになっています。でもカサブランカで世話になったベトナム人のことはハッキリと思い出しました。
旅に出ればいろいろの人に出会います。言葉の不自由さから相手の真心が読み取れず、過剰な警戒のあまり、たくさんの善意を裏切ってきたような気もします。反面、警戒心があったからこそ善意の顔をした悪意から身を守ったこともあったでしょう。旅行者にとってはそのあたりの見極めが非常に難しいところです。
『遠い太鼓』の中の「モロッコに行きたくなった」という春樹さんの一節から、以前モロッコを旅したときのささやかな記憶を拾いあげながら、「オレもモロッコに行きたいなぁ」などと思い、30数年前叶わなかったサハラ砂漠縦断に挑戦したいとも思った今年の夏でした。
「アフリカの水を飲んだ者は再びアフリカへ還る」ってこういうことなのかな。
. このアフリカ大陸横断については他のサイトに書いたので 関心のあるヒトは探し出して勝手に読んでくれ ということで、 この章は音楽が出なかったから、 得意のこんなパクリ音声をアップしときましょう。 あなたも世界のエンターティナー・ヒロミ・ゴーの気分になって歌ってみるのはどうよ!
最近はこの曲をipodに取り込んでリピートで聴いているのです。
あんなにワイルドだった私も、
30年を経た今では
こんな甘いメロディに聞き惚れる
軟派なオヤジになったことを痛感した夏でもありました。
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