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2006年6月18日 (日)

武相荘に行ってきた

武蔵と相模の境にあるから「武相荘」

もちろん、“無愛想”にかけたもの。

小田急線鶴川駅から徒歩15分に旧白洲邸「武相荘」はある。

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白洲次郎・正子夫婦がこの鶴川の地に居を構えたのは昭和18年(1943)。

折から第二次世界大戦が勃発しようという時期で、欧米列強の実情を知る白洲次郎は、「この戦争で日本は必ず負ける。そして食料難に陥る」と予測し、妻・正子とともに鶴川に転居して農作業に従事。いうなれば、疎開を先取りし百姓生活をしながら食料自給自足を試みたもの。

百姓といっても、10代後半から約10年イギリスに留学した白川次郎が、普段は田舎の領地に住みながら、なにかコトがあるとロンドンに赴くという英国貴族の暮らしぶりの、いわゆる英国式カントリージェントルマンのライフスタイルを実践しようとしたのがこの武相荘。だから、農作業しながら帝国ホテルあたりを定宿にしていた百姓だったことは十分想像できます。

武相荘の門を入ってすぐ右側の倉庫2階は白洲次郎資料展示室となっていて、終戦後、吉田茂の側近として活躍した当時の外交資料などが展示してあります。写真からは、特権階級に育ったものだけが放つオーラを感じることができ、これは細川護煕が放ったオーラに通じるものがありました。結局、吉田茂が目をつけたのは、田舎者のアメリカ人に、英国仕込みの物腰の白洲次郎を対峙させようとしたことだったのかな。

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萱葺きの母屋は白洲夫婦が何十年もかけて改造を重ねた家だそうで、かつて牛小屋だったという居間にさりげなく置かれた調度類は、どれも高価なものだろうけれど、普段の生活の道具として使用されているように馴染んでいます。吉田茂没後遺族から贈られた重厚な応接セットの上の英字雑誌は、読みかけてちょっと外出した主の次郎を待っているようです。

正子の書斎は日当たりの良くなさそうな8畳間ほどの広さで、堀炬燵にしつらえた文机に並ぶ筆記用具もひざ掛けショールも、これまたちょっと座を離れた正子が今にも戻ってきて再びペンを取りそうです。

壁一面に並ぶ手作り本棚の中に「オレの知ってる本はないかな?」とチェックを入れると、『赤目四十八瀧心中未遂/車屋長吉』の一冊がありました。ウス茶色に変色した蔵書の中に挟まれた、真新しい背表紙の車谷長吉の著書が気になり、帰宅してから『赤目四十八瀧心中未遂』の発刊を調べると、平成10年1月文藝春秋社刊で、白洲正子は平成10年12月26日88才で死亡となっているから、もしかすると白洲正子の最晩年の読書に属するのがこの『赤目四十八瀧心中未遂』だったかもしれません。

私小説のジャンルで異形の光を放つ車谷長吉と白洲正子にどんな心の交流があったのか分からないが、『白洲正子自伝/白洲正子/新潮文庫』の解説代わりに車屋長吉の『白洲正子の目』という一文が転載してあるところをみると、お互いの中に、自分ではどうにもならない“業”のようなものを見ていたのだろうか。

初夏の武相荘に欠かせないのが蚊取り線香で、各部屋部屋の蚊取り線香の煙は、白洲夫婦の時代から変わらない必需品なのでしょう。白洲夫婦もこの匂いの中で暮らしていたのかと思うと、細い煙さえもなにやら好ましく見えるのです。こんなヤブ蚊の多い地で、一代の傑物白洲次郎と女傑正子がお互いを磨きあったのがこの家ともいえるのです。

小物のひとつひとつもないがしろにしない白洲夫婦のこだわりに圧倒され外に出ると、特に整備されもせず、草木が自然のままに伸びた庭の石仏像は穏やかな微笑を浮かべ、まるでこの家の守り神のように母屋に出入りする客を送り迎えしてくれます。そんなことを思いながらこの仏像を見つめると、ただの石像が白洲夫婦の魂が乗り移ったことで仏様になったようにも見え、思わず手を合わせたのです。

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白洲次郎・正子夫婦がこの場所に移ってきた時代、駅からこの家までは一面の畑だったろうことは想像に難たくありません。それから60年後の現代では、駅からの道のりは逆に建物が途切れなく建つほどの変わりようで、かつてののどかな田園の面影もありません。なによりもユニクロの角を曲がって武相荘に入るという立地になってしまったのが時代の変化を物語っているのです。

日本人で初めてジーンズをはいたのが白洲次郎だといわれます。英国貴族のダンディズムを身につけた次郎がもし存命で、誰かに自宅の場所を教えるとき、「鶴川街道に入ってしばらく走ると『ユニクロ』があるから、そこの坂道を入るんだヨ」などと話している図を想像してニヤリとしたのでした。

もし、白洲次郎が望めば、政治の世界で大臣にもなれただろうし、
強力なコネを利用して政商としての地位を築くこともできたでしょう。
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でも、
白洲次郎の魂はあまりにも純真でした。
そんな世俗の地位を求めた途端、
自分が自分でなくなることを知っていたからこそ
白洲次郎は常に在野にあって、己の美学を貫けたのです。
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そして、
自由な立場だったからこそ、
何事にも縛られない発想が生まれたのかもしれません。
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小賢しい言を弄し
人の裏をかくことで金を得ることを追い、
挙句の果てに腰縄打たれる小悪党ばかりの昨今だから、
いつも毅然とした態度で本物の生き方を追求した
白洲次郎・正子の生涯はよりいっそう眩しく見えます。
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本当のぜいたくとは?
本当の遊びとは?
を、後世の私たちに気づかせるために、
この2人の存在があったとすら思えるのです。
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白洲次郎と白洲正子という傑物の人生には、
人間ごときに計ることのできない
はるかに偉大なるものの意図を感じて
武相荘から帰ってきたのです。
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白洲次郎
占領を背負った男

北 康利

講談社

白洲次郎=明治35年(1902年)兵庫県生まれ。神戸一中卒業後、英国ケンブリッジ大学に留学。戦前、近衛文麿、吉田茂の知遇を得る。戦後は吉田茂の側近として終戦連絡事務局次長、経済安定本部次長、貿易長官をい歴任、日本国憲法制定の現場に立ち会った。また、いち早く貿易立国を標榜し、通商産業省を創設。GHQと激しく対峙しながら、日本の早期独立と経済復興に、“歴史の黒子”として多大な功績を挙げた。昭和60年没(享年83)。紳士の哲学“プリンシプル”を尊ぶイギリス仕込みのダンディズムは終生変わらなかった。妻はエッセイストの白洲正子。

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