本田竹広追悼コンサート
モソッと現れた板橋文夫のピアノが、ビートルズの『ヘイ・ジュード』の旋律を拾い出したときに私の涙はあふれ出て止まらなくなってしまった。
板橋文夫が追悼した本田竹広ゆかりの『ヘイ・ジュード』は、
私にとっても本田さんがらみで特別な思い出があった曲だったのです。
あれは、1979年の初春だったと思う。
コンサートを終えた本田竹広(当時はたしか竹曠)が打ち上げの店に現れたときのこと。
店の客にはさっきステージで演奏していた憧れのピアニストと同席できる嬉しさが充満していました。
ぶっきら棒なポーズをとりながらも嬉しさを隠さず、ファンの差し出すレコードにサインをしたり記念写真に応じていた本田さん。
何を思ったか店のオーディーオルームに入りレコード棚を物色し始めたのです。
そして、お目当てのレコードだったのか、それまでかかっていたサックスのレコードを外し、見つけたレコードを自分でターンテーブルの上に乗せ針を落としたのです。
そのレコードがビートルズの『ヘイ・ジュード』で、リンゴ・スターのハイハットからタムタムに移るところで、体を大げさにのけぞらせる芝居がかった仕草で喜びを表したのです。
あの夜の本田コンサートのアンコール曲はスティービー・ワンダーの『イズント・シー・ラブリー』だったし、その以前にも、ビートルズソングをはじめポップスのレコーディングも行っていたから、ポップス好きは知っていたけれど、『ヘイ・ジュード』にあれほどの反応を示したことが意外に思われたのです。そういえば、ライブハウス出演時の休憩時間も、ジャズ系以外の音楽を流すことを好む人だったことを今思い出した。
60年代末、銀座7丁目にあったジャズクラブ『ジャンク』に出演した本田さんを聴いて以来熱烈な本田ファンとなり、いつか本田さんのライブを実現させたいと思ったほど惹かれたのは、そのポップス性をベースにした分かりやすさにあったと思います。
そんな思い入れの深かった本田ライブを実現できた夜の打ち上げの席で垣間見たのが『ヘイ・ジュード』に大喜びする本田さんの姿だったのです。
結局、私が本田さんと直接関わりあったのはあの夜の『ヘイ・ジュード』が最後。
その後私自身はジャズを聴くことも少なくなっていき、ジャズ雑誌を読むこともなく、ミュージシャンの動向に関心も持たず25年近くたってしまいました。そんな状況の中、今年1月に新聞で読んだのが本田さんの死亡記事だったのです。この10年くらいの間に脳梗塞で2度も倒れ、半身麻痺との壮絶な戦いを克服した後、ファンの支援を受けて演奏活動再開への展望が拓けた矢先の急死だったといいます。
あれほどプライドと個性の強い人だっただけに、その反動として周囲との軋轢があっただろうことは容易に想像できます。死んだからといって聖者に祀り上げる気はないけれど、ファンとしては作品だけがそのミュージシャンを評価する基準ということになります。本田さんの遺作となったアルバムを聴けば、本田さんの到達した世界は、闘病生活の中で自分の内面を見つめ直した結実だったことが理解できます。
25年前の本田さんの元気な姿しか保存されていなかった私は、その後に本田さんが見舞われた試練を上書きする作業をしなければなりませんでした。周辺情報を読み、ピアノとともに殉死したような生涯を閉じた本田さんを偲べば、“天”というのはなんと残酷な試練を与えて、なんと至福の結末を用意してくれたものかと、その“天”の仕組みを感じたのです。
板橋文夫が本田竹広追悼の『ヘイ・ジュード』をソロで弾き終え、客席に挨拶した顔は涙と鼻水でグシャグシャ。
板橋よ~ッ!オレだって同じ顔になってるだろうぜッ。
2006年3月5日(日)
『本田竹広追悼コンサート』を聴きに、
渋谷・初台の東京オペラシティコンサートホールへ。
本田竹広さんの死を知ってから、追悼コンサートが開かれるときには必ず行こうと思っていたのにコンサート情報を見逃してしまい、気がついたときには前売り券ソールドアウトの公示。
「当日券として40枚ほど用意できるかも知れない」という不確定情報を頼りに、早めに会場に行き当日券発売開始時間を待つ。
列に並びながら、この追悼コンサートをサポートする『本田竹広ファンクラブ』会長と少しお話をする。
会長は、本田さんが音楽家を目指して岩手県宮古市から中野区内の小学校に編入してきたときの同級生で、
病に倒れた晩年「本田竹広ファンクラブ」を立ち上げ、紀尾井ホールリサイタルなどの実現に尽力、
今回の追悼コンサートも、そんなファンクラブのボランティアで運営されているとのこと。
本田さん急死から追悼コンサート開催までの期間が短く、観客動員数が予想できないことと、ボランティアによる運営のためにオペラシティ全客席を開放した場合、全体を管理できるだけの自信がなく、1階の客席700数席だけの使用にしたとのこと。
ところが、日程発表すると2日ほどで予定客席数が売り切れ、その後も会場のオペラシティホールに問い合わせが殺到したために、会場側から2階3階席の全席追加開放をアドバイスされたけれど、、、、、。
「それ、やってしまうと、本田を使って金儲けするようになってしまうから・・・」
という美学で、当初の予定通り1階席だけの使用にしたのだといいます。
ファンのこんな善意の積み重ねで実現したのが
『本田竹広追悼コンサート』で
私は
板橋文夫の弾く『ヘイ・ジュード』を聴いて涙を流していたことになります。
それは 本田竹広さん追悼の涙というより
私自身の過ぎ去った時間を追悼するための涙だったような気がします。
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