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2006年3月26日 (日)

WBCには笑ったぜ

  「イルボンに勝ちさえすれば後はどうでも良い!」

とにかくイルボンより優位性を証明できれば、それだけですべてが許されるお国柄だから、トリノではメダル数で勝った、その後のスケートでも浅田真央から勝った、だから野球でも。

ベスト4に行くということは、、アメリカと準決勝を戦うということでイルボンをヤッツケることを意味し、「ベスト4に行ったら兵役免除」の約束手形。
ところがタッタタラリラ!
対イルボン2勝1敗なのに、ルールの妙で、決勝戦に進んだの憎っくきイルボン。

   アテとフンドシは寝てても外れる

ピーヒャラピーヒャラ踊るポンポコリン!
勝負は最後までわかりません。

sikiri
.

   2006/03/21(火)
確実に春は近づいていることを感じさせる春分の日の休日。
いつものように区民プールで1000mを泳いでから、川沿いの桜並木を歩き、駅前のスターバックスで機械的味のする美味くもないコーヒーを飲みながら一服。
WBC日本×キューバのテレビ中継を見たいと思ったけれど、今日はコンサートの招待券昼の部を貰っていたので渋谷へと向かう。どうせキューバには敵わないから、試合結果は夜のニュースで見れば十分だろう。

電車内で吊り革にブラ下がっていると、前に座っていた爺さんが横の奥さんらしい婆さんを向いて「デッドボール 押し出し、、、」と呟いた。爺さんの耳にはイヤホン差してあるからラジオを聴いてるのだろう。あぁ、そうだ、ちょうど今の時間に試合をやってるんだよ。でも、デッドボール押し出しで点を献上したのはどうせ松坂じゃないの?

コンサート前に昼飯たべなくっちゃと、東急ハンズ隣のインドカレー屋へ。
キーマカレーを注文。値段は忘れた。

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カレー好きとしては本場のこんなカレーを食べさせる店が増えているのは嬉しい。

心地よいカレーの辛みを口の中に残したまま渋谷文化村オーチャードホールへ。

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『アディエマス/カール・ジェンキンス』
全く予備知識の無かったユニットだったけれど、ジャンル別けすればワールドミュージックとかヒーリングミュージックということになるのだろうか。9人の女性コーラス隊、20人のストリングス、3本の木管にカール・ジェンキンスの指揮という編成。特に印象的なのは女性コーラスのサウンドで、英語圏の言葉とは異なる(たぶん、特別な意味のないスキャットだと思う)ハーモニーが、重過ぎず軽過ぎず、エスニックな雰囲気を醸しだして心地よい。

2時間ほど異空間で遊び、渋谷公園通りのマック渋谷店へ。
新発売のパソコンをイジッて見たけれど、素人にはどこがどう違うのか理解できない。

「そうだ野球はどうなったんだろう!?」
パソコンでスポーツニュースサイトを見てみれば、

       ギョエーッ!!! マジかヨッ?
      日本がキューバに勝って優勝してやがんの。

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午前中の車内で爺さんの「デッドボール 押し出し、、、」をてっきり松坂の仕業と思ったら、どうやら、日本選手が死球を受けて追加点を挙げたものらしい。松坂さん失礼しました。
それにしても、日本がキューバに勝つなんて、こんなことがあるんだなぁ。

夜のニュースは野球一色。
ツキで決勝戦まで上りその挙句の優勝だから、これまでは「長嶋ジャパン」だったのが「王ジャパン」一色にジャガーチェンジ。このところ永田メール問題などで重苦しくスッキリしない世相だったから、テレビ局は息を吹き返したように大騒ぎ。街頭インタビューでも、野球のルールも知らず、普段プロ野球の結果などに興味示さなそうなオバさんたちまでニコニコ笑顔。見ているこっちもウレシーッ!荒川静香さんのときもそうだったし、スポーツというのは私たちをこんなにも明るくしてくれることを実感する。

政治が、私たちにこんなヨロコビを与えてくれることがありますか?

サッカーなどでは試合結果で駐在大使館の襲撃だとか、あげくの果てに国交断絶などということもよくあるハナシらしい。そこまで行ってしまうとシャレにもならずチョッと引いてしまうけれど、スポーツはやっぱり国別対抗が一番面白い。これが国境を接しているとかの隣国対決だったりすると、過去の諍いを投影し盛り上がり方もひとしおです。

そういった意味からも、今回のWBCの韓国での前半の高揚感と後半の喪失感のその落差は想像できます。裏を返せば日本での前半の失望感と後半の達成感となります。

見てる方は勝った負けたでオモシロがってれば良いけれど、実際に対戦する方は試合結果によってファンに襲われたり、人格否定されたりでエライ目にあったりします。実際にテを合わせた選手は、勝ち負けの結果は結果として、それ以外に、実際にテを合わせた者にしか分からない相手選手への共感を覚えることもあるでしょう。でも、それを率直に口に出して相手選手を称えることがはばかられる設定もあります。

これは、2006年3月21日(火)、毎日新聞朝刊スポーツ欄。
ミョーなルールで決勝に進めなかった野球韓国代表の金寅植監督の記事。

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対戦相手の日本に対して『2回勝ったが、レベルは日本の方が上だった』と発言するということは、韓国ではオキテ破りで、場合によってはフクロ叩きにあって選手生命監督生命を奪われることになるような行為だったのではないかな。

そんな偏見を持っている私にとって今回の監督発言(それがタテマエだったにしても)は韓国人に対する私のイメージを覆すような発言でした。

ところが、、、、、。
こんどはコレだもの。


これは同じく毎日新聞2006年3月23日(木)の記事。

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韓国野球委員会の総裁という人物がラジオでこんなふうに語ったという。
    「実質日本の負け 再戦望む」
    WBCで日本が優勝したことについて
    「実質的には2対1(2勝1敗)で韓国に負けたこと、日本も分かっている」

だから、プロ野球シーズン終了後に改めて韓日対抗戦を開催して決着をつけようという提案。

韓国野球委員会という組織がどんな役割を持ち、総裁という役職がどういうものなのか知らないけれど、たぶん、韓国ではそれなりの経歴を持つ方なんでしょうが、このヒトな~んにも分かってないヒトみたい。

再戦して、韓国が勝てば「ホレ見ろ、3勝1敗、やはりウリナラが強い」
      日本が勝てば「これで2勝2敗のタイだッ。次に最終決着戦だッ」
ということなの?
WBCで日本が優勝したということを受け入れたくないんだなぁ。
季節外れのお祭り目論んで何を求めようとしてるんだろうかねぇ。


私は金寅植監督の記者会見の様子をテレビも見ていて、このように、冷静に物事を分析でき発言できる人物が監督を勤めている限り、日本野球が韓国野球の敵でなくなる日も近いだろうと感動したのです。

でも、でも、、、、

その2日後の韓国野球委員会総裁なる人物の発言記事を読んでは、こういうヒトが総裁の立場にいる限り、韓国野球が日本野球と対等になるには、まだまだ時間がかかりそうだと笑ってしまいました。

野球をめぐる日韓数日間の騒ぎを見ていて気づくのは

一般の市民や選手など“個”では簡単に分かり合えるのに

“組織”になると、難しい方向へ誘導したがる人たちがいるんだろうな

ということ。

スポーツはやはり国別対抗戦が一番!

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2006年3月24日 (金)

本田竹広追悼コンサート2~マライカ

61歳の若さで亡くなった本田竹広という希代のピアニストがどのようにして生まれたか。
本田竹広の40年にわたる音楽生活に関わりあったミュージシャンが、それぞれのスタイルで本田竹広を追悼した素晴らしいコンサートだったと思います。

追悼コンサートのパンフレットに、中島泰という本田竹広ファンが
本田竹広を偲んだ文章の中にこんな一節があります。

     山下(洋輔)さんは本田さんのことをこう話す。
    「あのままクラシックに進んでいたら、凄いピアニストになっただろう。
    
だが、結局、ジャズに向いていた。
    彼はヤマトタケル、スサノオ、そんな荒ぶる神だと私は思っている。
    そして、その時どきで、やりたいことをやってきた。
    天才の我がままを貫いた人生だった。
    体力の最後まで振りしぼって最後のCDまで作ったしね。
    見事な生き方だった」

山下洋輔は本田竹広の音大時代の先輩にあたり、本田竹広へジャズの手ほどきをしたといわれるピアニスト。ちなみに追悼コンサートで、スタンウェイも壊れんばかりに『ヘイ・ジュード』を弾き本田竹広を悼んだ板橋文夫は本田竹広の後輩になり、山下洋輔→本田竹広→板橋文夫という国立音大ラインを作ることになります。

本田竹広は音楽教師の両親のもとに生まれ、12歳で音楽家を目指して母とともに岩手県宮古市から中野区に編入したという経歴からも想像できるように、申し分ない環境で英才教育を受けて育ったようなもの。ところが、本田竹広は音大在学中にクラシックを捨ててジャズへ入り、音大中退という肩書きを持つことになります。本田竹広が親の呪縛から逃れるようにのめりこんだのがジャズで、ジャズによって自我を確立することができたと想像します。このあたりが山下洋輔のいう「結局、ジャズに向いていた」という言葉の意味なのではないかな。

そんな本田竹広は、ジャズで名を成しても、両親の期待に背いてしまったという後ろめたさを昇華することができず、両親に対する贖罪意識が、晩年のリサイタルでベートーベンに再挑戦し、さらにお父さん作曲になる宮古高校校歌を弾き、アルバムに収めたということなのではないだろうか。そして、今回の追悼コンサート最大の見せ場は、ドラマーの本田珠也(本田竹広の次男で今企画のプロデューサーを努める)と山下洋輔による宮古高校校歌のデュオにありました。

本田竹広の父親が作曲した校歌を本田竹広の息子がタイコを叩き、本田竹広の先輩で、かつて、ジャズの手ほどきをしたことのある山下洋輔がピアノを弾くという企画は追悼コンサートなればこその組み合わせです。

あのままクラシックに進んでいたら、凄いピアニストになっただろう

山下洋輔にも、嘱望されたピアニストを脇道に逸らせてしまったのではないか?という若干の後ろめたさを感じていたのかも知れません。

山下洋輔の弾く校歌はテーマこそ殊勝に校歌らしい提示だったけれど、“あとは野となれ山となれ”の荒れっぷり。ドラムスの本田珠也も必死になって喰らいつき、かつての山下洋輔(p)Vs森山威男(Ds)の時代を彷彿させる音の洪水で会場を包みます。ムカシあれほど前衛に感じた山下洋輔の音楽も、今では特に違和感なく体の中に入ってくるのは不思議なものです。

山下洋輔らしい愛に満ちた追悼の仕方で沸きあがった会場に、左手をポケットに突っ込み、やや皮肉っぽい笑みを浮かべた巨匠・渡辺貞夫登場。仕立ての良さそうなグレーのスーツで身を包んだ、いつもながらのダンディ・ナベサダ。

ピアノは山下洋輔、ドラムの本田珠也がそのまま残って、鈴木良雄(B)村上寛(Ds)というカルテットで『STELLA BY STARLIGHT』を演奏。この曲は、本田竹広(当時は竹彦)の1作目のアルバム『本田竹彦の魅力』に収録されていたジャズスタンダードで、この本田竹広初リーダーアルバムにゲスト参加し『STELLA BY STARLIGHT』を吹いたのが渡辺貞夫ということになります。

本田珠也によれば、生前の本田竹広は、新人だった自分のアルバムに渡辺貞夫がゲスト参加してくれたことがよほど嬉しかったらしく、「オレのジャズはこの曲から始まったんだッ!!!」と、口を酸っぱく語っていたとのこと。このレコードは1969年12月の録音だから40年近くも前の作品になります。

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今回、渡辺貞夫は過去にゲスト出演したこのレコードを聴いておさらいしてきたんではないか?と思えるほどソックリに吹いています。そしてピアノの山下洋輔はビル・エバンス風ピアノでサイドメンに徹し、さっきの宮古高校校歌と同じピアニストなの?とツッコミ入れたくなるほどのジャガーチェンジ(by:山下洋輔)っぷり。方法論異なりながらも、日本ジャズ界の東西両横綱として何十年も君臨してきた、渡辺貞夫・山下洋輔という両巨頭が、公式のコンサートでこんな風にセッションするということが今まであったのだろうか。

『STELLA BY ・・・』の次にブラジル・アフリカモノのナベサダレパートリーが明るく楽しく演奏されて、50年間変わらぬナベサダ節で会場はウキウキ。山下洋輔は狂うかな?という寸でのところで思いとどまりのビル・エバンス。それにしても、渡辺貞夫・山下洋輔ご両人のムカシと変わらぬ若々しさはどうだ。このご両人は80歳・90歳になっても現役で活躍し続けるのではないかな。

本田竹広がジャズファンに鮮烈な印象を与えた60年代末の『ヘイ・ジュード』から始まり、

渡辺貞夫クインテットに起用されナベサダブームの一端を担った時期から、

ネイティブ サンの結成でポピュラーな人気を得た後、

病と闘いながらの晩年と、

本田竹広のその時代その時代に身近にいたミュージシャンが

それぞれのスタイルで本田竹広を悼みながら、

遺児であるドラマーを、音楽家として育てようという温かさが表れていて、

客席もまた、

長年ジャズを聴いてきた大人たちが、

61歳で亡くなった本田竹広の音楽人生と自分の人生を重ね合わせて

過ぎ去りた日々を偲んだようなコンサートでした。

sikiri
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本田はボクと70年代にしばらくつきあってもらって、、、
このあいだ珠也にちょっと言われたんですが、、、
彼の愛唱歌を演ります。
珠也、オマエ唄う?

一人ステージに残った渡辺貞夫がこんなことを言って吹き出したのが、

東アフリカスワヒリ語圏で知られた『マライカ』という曲。

  ♪ マライカ ナクペンダ マライカ
     マライカ ナクペンダ マライカ
     ナミニファ イエイエー キジャナ モヘンジオ
     ナシマナマリ シンガ ウエイ
     エクオア マライカ 

本田竹広さんの愛唱歌だったそうだけれど、

私だって、

メチャクチャスワヒリ語で、こんな風に何十年も唄ってきた歌だったのです。

そこで、

本田竹広さんが、憧れだったアフリカに行ったときに、一夜遊んだクラブのその同じ場所で、

私が録音した、ケニヤ人女性歌手が唄う『マライカ』をアップして

本田竹広さんを追悼することにしましょう。

場所はケニヤの「スターライト」

1974年の録音です。

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2006年3月12日 (日)

本田竹広追悼コンサート

モソッと現れた板橋文夫のピアノが、ビートルズの『ヘイ・ジュード』の旋律を拾い出したときに私の涙はあふれ出て止まらなくなってしまった。

板橋文夫が追悼した本田竹広ゆかりの『ヘイ・ジュード』は、
私にとっても本田さんがらみで特別な思い出があった曲だったのです。

あれは、1979年の初春だったと思う。

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コンサートを終えた本田竹広(当時はたしか竹曠)が打ち上げの店に現れたときのこと。
店の客にはさっきステージで演奏していた憧れのピアニストと同席できる嬉しさが充満していました。
ぶっきら棒なポーズをとりながらも嬉しさを隠さず、ファンの差し出すレコードにサインをしたり記念写真に応じていた本田さん。
何を思ったか店のオーディーオルームに入りレコード棚を物色し始めたのです。
そして、お目当てのレコードだったのか、それまでかかっていたサックスのレコードを外し、見つけたレコードを自分でターンテーブルの上に乗せ針を落としたのです。

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そのレコードがビートルズの『ヘイ・ジュード』で、リンゴ・スターのハイハットからタムタムに移るところで、体を大げさにのけぞらせる芝居がかった仕草で喜びを表したのです。

あの夜の本田コンサートのアンコール曲はスティービー・ワンダーの『イズント・シー・ラブリー』だったし、その以前にも、ビートルズソングをはじめポップスのレコーディングも行っていたから、ポップス好きは知っていたけれど、『ヘイ・ジュード』にあれほどの反応を示したことが意外に思われたのです。そういえば、ライブハウス出演時の休憩時間も、ジャズ系以外の音楽を流すことを好む人だったことを今思い出した。

60年代末、銀座7丁目にあったジャズクラブ『ジャンク』に出演した本田さんを聴いて以来熱烈な本田ファンとなり、いつか本田さんのライブを実現させたいと思ったほど惹かれたのは、そのポップス性をベースにした分かりやすさにあったと思います。

そんな思い入れの深かった本田ライブを実現できた夜の打ち上げの席で垣間見たのが『ヘイ・ジュード』に大喜びする本田さんの姿だったのです。

結局、私が本田さんと直接関わりあったのはあの夜の『ヘイ・ジュード』が最後。
その後私自身はジャズを聴くことも少なくなっていき、ジャズ雑誌を読むこともなく、ミュージシャンの動向に関心も持たず25年近くたってしまいました。そんな状況の中、今年1月に新聞で読んだのが本田さんの死亡記事だったのです。この10年くらいの間に脳梗塞で2度も倒れ、半身麻痺との壮絶な戦いを克服した後、ファンの支援を受けて演奏活動再開への展望が拓けた矢先の急死だったといいます。

あれほどプライドと個性の強い人だっただけに、その反動として周囲との軋轢があっただろうことは容易に想像できます。死んだからといって聖者に祀り上げる気はないけれど、ファンとしては作品だけがそのミュージシャンを評価する基準ということになります。本田さんの遺作となったアルバムを聴けば、本田さんの到達した世界は、闘病生活の中で自分の内面を見つめ直した結実だったことが理解できます。

25年前の本田さんの元気な姿しか保存されていなかった私は、その後に本田さんが見舞われた試練を上書きする作業をしなければなりませんでした。周辺情報を読み、ピアノとともに殉死したような生涯を閉じた本田さんを偲べば、“天”というのはなんと残酷な試練を与えて、なんと至福の結末を用意してくれたものかと、その“天”の仕組みを感じたのです。

板橋文夫が本田竹広追悼の『ヘイ・ジュード』をソロで弾き終え、客席に挨拶した顔は涙と鼻水でグシャグシャ。
板橋よ~ッ!オレだって同じ顔になってるだろうぜッ。

2006年3月5日(日)
『本田竹広追悼コンサート』を聴きに、
渋谷・初台の東京オペラシティコンサートホールへ。

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本田竹広さんの死を知ってから、追悼コンサートが開かれるときには必ず行こうと思っていたのにコンサート情報を見逃してしまい、気がついたときには前売り券ソールドアウトの公示。
「当日券として40枚ほど用意できるかも知れない」という不確定情報を頼りに、早めに会場に行き当日券発売開始時間を待つ。

列に並びながら、この追悼コンサートをサポートする『本田竹広ファンクラブ』会長と少しお話をする。
会長は、本田さんが音楽家を目指して岩手県宮古市から中野区内の小学校に編入してきたときの同級生で、
病に倒れた晩年「本田竹広ファンクラブ」を立ち上げ、紀尾井ホールリサイタルなどの実現に尽力、
今回の追悼コンサートも、そんなファンクラブのボランティアで運営されているとのこと。

本田さん急死から追悼コンサート開催までの期間が短く、観客動員数が予想できないことと、ボランティアによる運営のためにオペラシティ全客席を開放した場合、全体を管理できるだけの自信がなく、1階の客席700数席だけの使用にしたとのこと。

ところが、日程発表すると2日ほどで予定客席数が売り切れ、その後も会場のオペラシティホールに問い合わせが殺到したために、会場側から2階3階席の全席追加開放をアドバイスされたけれど、、、、、。

  「それ、やってしまうと、本田を使って金儲けするようになってしまうから・・・」

という美学で、当初の予定通り1階席だけの使用にしたのだといいます。

ファンのこんな善意の積み重ねで実現したのが

『本田竹広追悼コンサート』で

私は

板橋文夫の弾く『ヘイ・ジュード』を聴いて涙を流していたことになります。

それは 本田竹広さん追悼の涙というより

私自身の過ぎ去った時間を追悼するための涙だったような気がします。


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2006年3月10日 (金)

ニライカナイから中山ラビへ

さて、
トリノオリンピックの始まる前のことだけど、スケートの浅田真央嬢が世界チャンピオンになって、それでも、年齢制限でオリンピックには出場できないというニュースに、日本人は悲嘆にくれました(それほどでもないか)。この件について、4チャンネル日曜朝8時からの徳光さん司会のナントカという番組で、徳さんが得意顔でこんなことを言ってましたネ。

真央ちゃんがトリノに出れないということは、

トリノのフィギュアでの金メダルは

銀メダルということになります。

徳光見解でいえば、荒川静香は銀メダルの価値しかないということになります。

オリンピック後の徳さん司会のこの番組は見ていないけれど、徳さんはこの発言について何か言い訳したんでしょうかネ?。
それとも無視したんですかネ?
ご存知の方いらっしゃいますか?

徳さんも、まさか日本人が金メダル獲るとは想像してなかったから、
「金メダルは銀・・・」のフレーズ浮かんだときはニヤリとしたことでしょうネ。
ところが、、、、ところが、、、イナバウアーだもの!
人生、何が起きるかわかりませんから言動には気をつけましょう、、、。
   アッハッハッハッハー

日本中が荒川静香さんに元気を貰って明るくなって、
オヤジが飲み屋でウケ狙いのイナバウアー真似て腰を痛めたりする時代です。
メディアはイナバウアーネタ乱発で儲けたろうけれど、
静香さ~ん!気をつけましょうネ。
そのうち、呼び戻しで、“引きずり降ろす”エネルギーをバンバン働らかせて、
それでまた儲けようというのがメディアのいつもながらのテなんですから。

sikiri

ということで、静香さんには関係ないけれど、今週の映画はこれだ!

   『ニライカナイからの手紙』

舞台は八重山諸島・竹富島。

風希が6歳のとき、お母さんは東京に行くと言って島を出ていったきり。
それから風紀は郵便局長のオジィと二人暮し。

「いつか迎えにくるから」

“おっかぁ”の言葉を信じているのに、いつまでも迎えにきてくれません。

それでも、毎年、誕生日には“おっかぁ”からの手紙が届きます。

「東京に行けば“おっかぁ”に会えるかもしれない」

18歳になった風希は竹富島から上京、カメラマンのアシスタントとして働くことになります。

・・・・・・・・・・

昨年八重山の島巡りを楽しんだワシとしては、なんといっても、島の景色が懐かしかった。
なにしろ、竹富島は自転車を小一時間も漕げば1周できるほどの小さな島だから、
映画に出てくる景色はすべて見覚えがあるようなもの。

あの海岸は星砂の浜だな。
この道は通ったなぁ!
1000円を貯金したのは風希のお爺ちゃんの郵便局だったかな?

まぁ、そんなワケで、序盤でだいたいのストーリー予想できて、
やはり予想通りの結末に落ち着き、郵便局の回し者みたいな映画だったけれど、
ワシの思い入れがあるから、“お気に入りに追加”しておきましょう。

思い入れついでに予告編をどうぞ。
「niraikanai.wmv」をダウンロード

ネッ? ちょっとソソリません?

sikiri

2006年3月4日(土)
『ニライカナイ』でホノボノとなったところで、レンタルビデオ屋に返却してから、赤坂へ大急ぎ。
今夜は赤坂グラフィティという店で『フォーキング・ワールドの歌』という催しがあって、
中山ラビが出演することになっているのだ。

この会はフォークシンガーの瀬戸口修がホストになって、ゲストと一緒に歌う企画だそうで今回が8回目。今回のゲストは鎌倉研と中山ラビというワケ。中山ラビについての予備知識はヤマほどあるけれど、瀬戸口修と鎌倉研については予備知識ゼロ。

ライブ後の結論言ってしまえば
2人については“知らなくても良い”ということになるけれど、
それじゃアレだから、一応画像をお見せしましょう。
(アレってドレだ?)

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(左 : 鎌倉研   右 : 瀬戸口修)

鎌倉研は嘉門達夫と円ひろしを足して2で割ったキャラクター。
みなみらんぼうの弟子だった時期もあるそうで、らんぼう氏には「喋るな歌え!」と怒られたというし、ナントカという落語家の弟子だった時期は、「歌うな喋れ!」と師匠に怒られたエピソードからも、フォークシンガーとしての鎌倉研の芸風は想像できるかと思います。

ホストの瀬戸口修については、、「性格的には良い人そうだなぁ~」という雰囲気漂わせていたけれど、フォークシンガーとしては評価の難しい地味~な人でした。
歌には関係ないけどね。

1部は20分の持ち時間でそれぞれの歌を歌い、2部は他の2人の歌を歌うという趣向。
やはり圧巻は中山ラビで、他人のどんな歌を歌ってもすべて中山ラビ世界に染めてしまうということ。

ワシはいつも思うのだけれど、腹の括りかたの差が歌の差となって表れるのです。

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企画としては、
ムカシのチョッと知り合い同士の馴れ合いライブで終わったけれど、
久しぶりのラビさんのステージを見られて、
それだけで、
「どちらかというと満足」
というところか。
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2006年3月 6日 (月)

猫のシッポ

ときどき、ミョーな飾りを首に巻いた“えりまき犬”を見かけることがあって気になっていた。

バンダナ巻いた(巻かされた)ヤツだとか、ベスト状のモノを着た(着せられた)ヤツはよく見かけるから、
そんなタグイの“飼い主自己満足・お犬さまグッズ”なのかな?と思って、

「犬にこんなことしてオモシロイんだな~」

と、その飼い主の顔を見ては、内心「ケッ!」などと言ってたワケですヨ。

そうしたら、このあいだ、下北沢の商店街を歩いてて、
その“えりまきトカゲ状態”の犬とすれ違ったので思いきって訊いてみた。

  「あの~、この巻いてるものはナニか意味があるんでしょうか?」

エッ?犬に訊いたのかって?
もちろん、ヒモ握ってる60歳半ばの女性にですヨ。

去勢手術を施した傷跡をワンちゃんが気にして舐めて悪化するのを防ぐため、
顔が届かないようにする器具
だとのこと。
なるほどなるほど、飼い主の趣味グッズではないというお答えにナットク。

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キンヌキされちゃったのかい?
と改めてお顔を見れば、たぶん、それなりに高価なワンちゃんだろうだけど、
ちょっと、哀愁漂わせた風情のお顔でした。

「イヌ派」か「ネコ派」か。

「犬は、その時にエサをくれる誰でもに媚を売るようでイヤだ」とか
「あの、高慢チキな顔の猫が鼻持ちならない」とか
ペットの趣味によってその人の性格などを分析する方法もあるらしい。

「オマエはどっち?」と質問されたら(そんなこと、ワシに訊くヤツはいないけれど)
「ワシは犬も猫もどっちも好き」と答える。

賃貸アパート暮らしではどちらも飼うことができないけれど、街を歩いていて、猫を見れば近寄って手を出しノドとかワキの下をくすぐってやりたいし、散歩中の犬を見ては、その犬と飼い主の顔を見比べ、ソックリ度を採点しては、ニヤリとするワケです。

と、マクラ振ったところで、

この人はどうやら完全にネコ派らしい。
なにしろ、この世界中でただ一人猫語を理解できると自称するお方です。

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猫のシッポ
安部譲二

講談社

府中刑務所には、
なんと10匹以上のゴロニャンが
棲んでいました。

なぜか女房気取りだった猫、
人間と同じ避妊手術をした猫、
バンカーをトイレ代わりにする猫、
何も言わず去っていった猫・・・・・・。

猫語を喋る安部譲二が語る
「愛しのゴロニャン」

よくぞこれまで生きてこられたものとアキレル波乱万丈の人生、その折々に身近にいた猫と女性に対する愛情に溢れた本です。

そして、かつて、リンクしたことのある有名人の素顔などもサラリと語られていて、特に、三島由紀夫の在りし日の姿などは、この作者でなければ絶対に書けないエピソードでしょう。

30年くらい前だけど、ワシがジャズのライブなどを企画していたころのこと。

あるピアニストとのハナシがまとまり、ギャラを前払いしようということになって、そのピアニストが出演している「青山・ロブロイ」というジャズ・クラブを訪ねたことがありました。気難しいことで知られたピアニストは「彼は今度の主催者で、遠くからわざわざギャラ持ってきてくれたの」などと上機嫌でママに紹介してくれました。ママも気をつかったようで、こちらの食事代も受け取らなかったのでそのまんま帰ってきたワケです。その何年か後、安部譲二さんが『塀の中の懲りない面々』でデビューし、その作品とアバンギャルドな経歴が評判になったとき、あの「ロブロイ」は安部譲二さん経営のクラブで、ママは奥様だったことを知ることになります。

たった一回ポッキリ行っただけのジャズ・クラブだったけれど、田舎の小さな町にいたワシには、あのセピア色の店は結構強力に刷り込まれているのです。ワシが「ロブロイ」に行った当時、もしかすると安部譲二さんはオツトメの塀の中で、塀の内外を自由に出入りできるゴロニャンを眺めては、シャバに残した店で夜ごと繰り広げられていたセッションを思出してた時期だったのかな。

元妻といえども、今でも“一飯の恩義”は忘れないから

せめて

その当時のダンナさんだった安部譲二さんの本はときどき読んで

ニヤリとしているのです。

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