本田竹広追悼コンサート2~マライカ
61歳の若さで亡くなった本田竹広という希代のピアニストがどのようにして生まれたか。
本田竹広の40年にわたる音楽生活に関わりあったミュージシャンが、それぞれのスタイルで本田竹広を追悼した素晴らしいコンサートだったと思います。
追悼コンサートのパンフレットに、中島泰という本田竹広ファンが
本田竹広を偲んだ文章の中にこんな一節があります。
山下(洋輔)さんは本田さんのことをこう話す。
「あのままクラシックに進んでいたら、凄いピアニストになっただろう。
だが、結局、ジャズに向いていた。
彼はヤマトタケル、スサノオ、そんな荒ぶる神だと私は思っている。
そして、その時どきで、やりたいことをやってきた。
天才の我がままを貫いた人生だった。
体力の最後まで振りしぼって最後のCDまで作ったしね。
見事な生き方だった」
山下洋輔は本田竹広の音大時代の先輩にあたり、本田竹広へジャズの手ほどきをしたといわれるピアニスト。ちなみに追悼コンサートで、スタンウェイも壊れんばかりに『ヘイ・ジュード』を弾き本田竹広を悼んだ板橋文夫は本田竹広の後輩になり、山下洋輔→本田竹広→板橋文夫という国立音大ラインを作ることになります。
本田竹広は音楽教師の両親のもとに生まれ、12歳で音楽家を目指して母とともに岩手県宮古市から中野区に編入したという経歴からも想像できるように、申し分ない環境で英才教育を受けて育ったようなもの。ところが、本田竹広は音大在学中にクラシックを捨ててジャズへ入り、音大中退という肩書きを持つことになります。本田竹広が親の呪縛から逃れるようにのめりこんだのがジャズで、ジャズによって自我を確立することができたと想像します。このあたりが山下洋輔のいう「結局、ジャズに向いていた」という言葉の意味なのではないかな。
そんな本田竹広は、ジャズで名を成しても、両親の期待に背いてしまったという後ろめたさを昇華することができず、両親に対する贖罪意識が、晩年のリサイタルでベートーベンに再挑戦し、さらにお父さん作曲になる宮古高校校歌を弾き、アルバムに収めたということなのではないだろうか。そして、今回の追悼コンサート最大の見せ場は、ドラマーの本田珠也(本田竹広の次男で今企画のプロデューサーを努める)と山下洋輔による宮古高校校歌のデュオにありました。
本田竹広の父親が作曲した校歌を本田竹広の息子がタイコを叩き、本田竹広の先輩で、かつて、ジャズの手ほどきをしたことのある山下洋輔がピアノを弾くという企画は追悼コンサートなればこその組み合わせです。
「あのままクラシックに進んでいたら、凄いピアニストになっただろう」
山下洋輔にも、嘱望されたピアニストを脇道に逸らせてしまったのではないか?という若干の後ろめたさを感じていたのかも知れません。
山下洋輔の弾く校歌はテーマこそ殊勝に校歌らしい提示だったけれど、“あとは野となれ山となれ”の荒れっぷり。ドラムスの本田珠也も必死になって喰らいつき、かつての山下洋輔(p)Vs森山威男(Ds)の時代を彷彿させる音の洪水で会場を包みます。ムカシあれほど前衛に感じた山下洋輔の音楽も、今では特に違和感なく体の中に入ってくるのは不思議なものです。
山下洋輔らしい愛に満ちた追悼の仕方で沸きあがった会場に、左手をポケットに突っ込み、やや皮肉っぽい笑みを浮かべた巨匠・渡辺貞夫登場。仕立ての良さそうなグレーのスーツで身を包んだ、いつもながらのダンディ・ナベサダ。
ピアノは山下洋輔、ドラムの本田珠也がそのまま残って、鈴木良雄(B)村上寛(Ds)というカルテットで『STELLA BY STARLIGHT』を演奏。この曲は、本田竹広(当時は竹彦)の1作目のアルバム『本田竹彦の魅力』に収録されていたジャズスタンダードで、この本田竹広初リーダーアルバムにゲスト参加し『STELLA BY STARLIGHT』を吹いたのが渡辺貞夫ということになります。
本田珠也によれば、生前の本田竹広は、新人だった自分のアルバムに渡辺貞夫がゲスト参加してくれたことがよほど嬉しかったらしく、「オレのジャズはこの曲から始まったんだッ!!!」と、口を酸っぱく語っていたとのこと。このレコードは1969年12月の録音だから40年近くも前の作品になります。
今回、渡辺貞夫は過去にゲスト出演したこのレコードを聴いておさらいしてきたんではないか?と思えるほどソックリに吹いています。そしてピアノの山下洋輔はビル・エバンス風ピアノでサイドメンに徹し、さっきの宮古高校校歌と同じピアニストなの?とツッコミ入れたくなるほどのジャガーチェンジ(by:山下洋輔)っぷり。方法論異なりながらも、日本ジャズ界の東西両横綱として何十年も君臨してきた、渡辺貞夫・山下洋輔という両巨頭が、公式のコンサートでこんな風にセッションするということが今まであったのだろうか。
『STELLA BY ・・・』の次にブラジル・アフリカモノのナベサダレパートリーが明るく楽しく演奏されて、50年間変わらぬナベサダ節で会場はウキウキ。山下洋輔は狂うかな?という寸でのところで思いとどまりのビル・エバンス。それにしても、渡辺貞夫・山下洋輔ご両人のムカシと変わらぬ若々しさはどうだ。このご両人は80歳・90歳になっても現役で活躍し続けるのではないかな。
本田竹広がジャズファンに鮮烈な印象を与えた60年代末の『ヘイ・ジュード』から始まり、
渡辺貞夫クインテットに起用されナベサダブームの一端を担った時期から、
ネイティブ サンの結成でポピュラーな人気を得た後、
病と闘いながらの晩年と、
本田竹広のその時代その時代に身近にいたミュージシャンが
それぞれのスタイルで本田竹広を悼みながら、
遺児であるドラマーを、音楽家として育てようという温かさが表れていて、
客席もまた、
長年ジャズを聴いてきた大人たちが、
61歳で亡くなった本田竹広の音楽人生と自分の人生を重ね合わせて
過ぎ去りた日々を偲んだようなコンサートでした。
一人ステージに残った渡辺貞夫がこんなことを言って吹き出したのが、
東アフリカスワヒリ語圏で知られた『マライカ』という曲。
♪ マライカ ナクペンダ マライカ
マライカ ナクペンダ マライカ
ナミニファ イエイエー キジャナ モヘンジオ
ナシマナマリ シンガ ウエイ
エクオア マライカ
本田竹広さんの愛唱歌だったそうだけれど、
私だって、
メチャクチャスワヒリ語で、こんな風に何十年も唄ってきた歌だったのです。
そこで、
本田竹広さんが、憧れだったアフリカに行ったときに、一夜遊んだクラブのその同じ場所で、
私が録音した、ケニヤ人女性歌手が唄う『マライカ』をアップして
本田竹広さんを追悼することにしましょう。
場所はケニヤの「スターライト」
1974年の録音です。
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