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2006年1月31日 (火)

ゴールデン街の名物ママ

昨年秋発売の週刊誌のこんな切抜きがある。

2006
突如逝った新宿ゴールデン街「名物ママ」
酒とジャズと映画を愛した新宿ゴールデン街の名物ママが11月20日、急逝した。
「唯尼庵(ユニアン)の店主、大田喜代子さん、享年58。
店名は仏語で退屈、倦怠の意のアンニュイを逆さにしてもじったものだったが、
店内は4坪半ながら毎夜、談論風発だった。
(週刊新潮2005.12.08号)

 毎年年末に行われていた『新宿ブルースナイト』は、新宿ゴールデン街の店主有志が後援して開催されていて、出演者も魔窟ゴールデン街つながりらしく、ヒトクセフタクセのメンツ。出演者がこれだから、お客だってワタシなんぞのカタギは肩身の狭いような、見た目ミクセヨクセの面々で、会場は治外法権的ムードを醸しだしていたのです。

この『新宿ブルースナイト』の会場で、毎回、客席最前列に陣取り、それぞれのミュージシャンに声をかけてはウイスキーのボトルを差し入れて、一人で盛り上がっている女性がいました。初めのうちは、「何だアレは?ウルサイ女だな~」と遠くから見ていたけれど、ステージ上のミュージシャンとのヤリトリから、「あぁ、このヒトがゴールデン街の“キヨママ”だったのか」と気がついたのです。素性がわかってしまえば、バーのカウンターを挟んでのママとお客のヤリトリのように思えてほほえましくもありました。

ブルースナイトで見かける“キヨママ”はいつも佐伯俊男画伯イラストの上っ張り状のシャツを着ていて、その洗いざらしの度合いから、このシャツへの愛着の強さが見て取れました。このシャツだって、モロ70年代という代物。

2006

彼女が店を開いたのは34年前。女優志望だったこともあり、
映画関係の常連が多かった。俳優の原田芳雄、根岸季衣、
監督では若松孝二、高橋伴明、黒木和男、崔洋一の各氏ら。

「気の強い女だった」と振り返るのは高橋伴明監督である。
「店には等身大のヌード写真が飾ってあってね。あの年代
にしてはたっぱもあって(推定168センチ)、グラマラスだった。
アラーキーこと荒木経惟氏の仲間が撮ったのではなかったかな。
反面ナイーブで細やかな気遣いもできた」
(週刊新潮2005.12.08号)

この記事によれば、
11月20日未明、酔って帰宅し、眠ったまま逝った
らしい。

だから、今回の『新宿ブルースナイト』には“キヨママ”の姿はなく、例のかけ声も聞くことはできなかったのです。

もちろん、私はゴールデン街で酒を飲んだこともなく、「キヨママ」を個人的に知っているワケでもないけれど、『新宿ブルースナイト』の会場で何回か同じ空気を吸ったことがあるのも“多生の縁”としてご冥福を祈ります。

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2006年1月29日 (日)

ちょっとオキャクさ~ん

ちょっとオキャクさ~ん!!!

『新宿ブルースナイト 05』で、カルメン・マキ嬢が歌ったのは『♪戦争は知らない』、『戦争知らない子供たち』ではありませ~ん。ちなみに、ワシ、『戦争知らない子供たち』というこの歌が、理由はウマク説明できませんが、ニガテで苦手で気持ち悪くってしかたありません。“反戦歌”などという位置付けで、皆で歌っているシーンを見たりすると腹立たしくなってくるのです。

エッ?
『♪戦争は知らない』を知らない?
良い歌なんですがね~。
特に大ヒットした曲でもないので、オキャクさんの世代には印象が薄いかな。
それじゃ、「あぁ、この曲か~」と思い出してくれるかも知れませんから、チョット聴いてもらいましょうかね。
カルメン・マキが「私なりの反戦歌です」と前置きして歌った、寺山修司作詞の『戦争は知らない』です。

(2006.01.22『新宿ブルースナイト』於:新宿スペース107から)

まぁ、
こんなふうに、私たちには30年前、40年前の思い出せる歌がたくさんあるのですが、オキャクさんの世代は将来どんな歌を思い出すんでしょうね。

こんなコト言いたがるのも、トシのせいで

余計なお世話か。

sikiri

今日の日曜日は、朝から、テレビでは、予想できたけれど、、、、。
ホリエモン関係のオンパレード。
そうですか、そうですか、まぁ、スキにヤリンさい!!!

それにしても、、、、、、。

「額に汗して働く人が報われる社会、、、、」なんて、

もし、歴代首相ワースト3の投票があったら

例の『指3本』のお方と

トップ争い間違いなしの

アンタに言われたくないよ~。

   アッハッハッハハー!!!

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2006年1月26日 (木)

カルメン・マキ登場

まず、この画像を見てください。

06

この組み合わせのユニークさが分かったヒトはかなりの“フォークモン”です。

解説すると、左から三上寛、カルメン・マキ、リリィ、中山ラビというブッキングで、コレぞまさしく1怪人+3妖女。要するに70年代化け物4人が同じステージに上がったの図。
1月22日・新宿スペース107に於ける『新宿ブルースナイト ’05』のステージの様子。

2006/1/22(日)
『新宿ブルースナイト ’05』を聴きに新宿へ。

06

毎年12月ころに開催されていた『新宿ブルースナイト』。昨年分はなぜか年が明けて1月の開催になってしまった。
これまでは、原田芳雄親分が他を寄せ付けない貫禄を見せて最後を〆ていたけれど今回は不参加なのが残念。

代わりにトリを勤めたのが、

   生きていたか?!!!

の、カルメン・マキ

60年代末のフォーク調デビュー曲から、OZというロックバンドを率いて(本人が喜んだかどうか知らないけれど)和製ジャニス・ジョプリンと呼ばれた時代を経て、現在までの毀誉褒貶有為転変。社会の流れに押しつぶされることなく、さらに存在感溢れるシンガーとなっていました。

私にとってカルメン・マキというのはなぜか胸騒ぎのする名前。同じ世代なのに、こちらがハナをたらしているころから、すでにあらゆることを知り尽くしていた大人で、絶対タメ口などきけそうにないほどの圧倒的存在でした。

ナマのカルメン・マキを見たのは今回初めてだったけれど、この人の雰囲気は一種特別なモノがありましたネ。他が入りこむことを拒否するような、“特殊な”の元に生まれてきたとしか説明しようのない妖気で、会場を尋常でない世界に染めてしまいます。付け焼刃の演技などで醸し出せるものではありません。

当夜のセットは、ギター、ウッド・ベース、パーカッションの「隠者の森」というユニット。

歌い始めて今年で38年になるんだけど、、、
、、、いままでズ~ッと封印していた曲で、、
最近、、、歌ってみようかな、、と思って、、、、
時代が時代だけに、いまこそ、こういう曲を歌うべきなんじゃないかな
特に若い人へ、、、、
私なりの反戦歌なんですが、、、
寺山修司の作詞です。

こんなMCのあと、
「♪戦争は知らない」
「♪時には母のない子のように~SOMETIMES I FEEL LIKE A MOTHERLESS CHILD~SUMMERTIME~時には母のない子のように」など、あの時代を通り過ぎてきた者にとっては涙が出そうになる懐かしの名曲も披露。しかも、ただのナツメロフォークに堕することなく、これまでの人生が凝縮されたような深みある歌として蘇えらせてくれました。

2006
カルメン・マキ真夜中詩集
ろうそくの消えるまで
構成 寺山修司
録音1969年

ムカシは、
「カルメン・マキは、レコード会社の営業政策で、仕方なくこんな歌を歌っているんだ!!」
などと勝手に思っていたけれど、今のカルメン・マキを聴いてると、歌うことがホントに好きなんだなぁと思えて嬉しくなってきます。

20代には20代でなければ表現できない世界があって、50代には50代でなければ表現できない世界があるということ。かつて、ジャニス・ジョプリンと呼ばれたカルメン・マキは、今ではビリー・ホリディの世界へと近づきつつあるようです。

最後に、、、、、。
これまでのブルースナイトは、トリをつとめる原田芳雄の全出演者紹介で終わるのが恒例だったけれど、今回は親分が出演しないため、カルメン・マキに慣れないその役が回ってきました。

三上寛に、「オマエ、司会の才能ないな!」とツッコミいれられながらの、その場面をチョビッとご覧ください。

「060122shinjyuku_maki.wmv」をダウンロード

と、いうワケで、、、、。
私は中山ラビの応援団として、
当夜もラビさんを聴きにいって、
思いがけずもカルメン・マキの妖気にヤラレてしまったみたい。

というハナシでした。

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2006年1月21日 (土)

NO PROBLEM

昨日の神田の局地的大雪雪ダルマはウソモノだったけれど、今朝、起きてみたらホンモノの雪が降っていて、外に出てみればこんなことになっていた。

06
どうやら
雨は夜更け過ぎに
雪へと変ったらしい、、、、、、
テガッ!
.
ダウンジャケットの重装備で
06
こんなモノを飲んでから、
さて、プールまでのBGMは何が良いか、、、と
06
DUKE JORDAN/FRIGHT TO DENMARK
ジャケットで選んだ、こんなCDをウォークマンにセットしてプールへと出かける。
.
やはり、この天気だからプールはガラ空き。
ゆったりと泳いで、
ジャグジーに浸かりながら、身体をクラゲ状態に弛ませ、
雪降る外の景色を眺めていた。
僅か200円で味わえる区民プールの天国。
.
たぶん、昨夜あたりから、六本木ヒルズでは
「・・・・・次はわが身か、、、、、?」
こんな景色を見下ろしながら
マンジリともしない朝を迎えたヒトもいたでしょうネ。
.
HOW DOES IT FEEL
まぁ、イイじゃぁないか、
瞬間的にしろ、
世界の中心にいた感じを味わえただけでも。
.
LIKE A ROLLING STONE
それぞれが、
それぞれの決められた道を歩み
それぞれの決められた道へ戻るだけヨッ。
.
NO PROBLEM
デュ-ク・ジョーダンのシングルトーンはヤケに心を円くさせるゼ。
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2006年1月20日 (金)

HOW DOES IT FEEL

明け方3時頃に目が覚めて、半身が不自由になってしまったピアニストのことを思っていた。

「1日何時間くらい練習するんですか?」と訊いたら、「そうだね、家にいるときは5・6時間は弾いてるかな~」というので、「エッ!そんなに?」と私がビックリすると、「少ないくらいだよ。だって、サラリーマンだったら、朝9時から5時まで仕事するじゃない。ボクらピアノを弾くのが仕事なんだもの」。

あのダミ声を思い出したら眠れなくなってしまった。

彼の腕というのは肉体労働者並の筋骨隆々で、指だって鍵盤からハミ出すんでは?と思えるほどの極太。もし、彼のことを知らない人に印象を訊ねたら、“ピアニスト”というよりも正に土方。ファンにはその豪腕が叩き出す日本人離れした力強い音が魅力だったわけです。

あの片手が不自由になってしまったんだなぁ。

フト思いついたことがあってパソコンにスイッチを入れ、画像ファイルの写真を加工し、それまで使ってたブログのタイトル写真と差し替えてみた。この“指の写真”は、多分1972年にタイを旅行したときに撮ったもの。思えばこの当時がいちばん彼のピアノを聴いていた時期だったかも知れません。

これで、少しは本田さんの供養ができたかな。
そして、このブログの方向性も固まったかな。
そう思ったら安心しちまって、また眠ってしまった。

sikiri

今年は例年になく大雪だそうで各地で雪の被害が多発のようだが、その余波を受けたか東京・神田も大雪に見舞われました。

06 06

こんな雪だるまが靖国通り沿いに何体もできてるものだから、道行く人も触ってはキャッキャッ言って喜び、ケータイで記念写真撮ったりの大騒ぎ。豪雪地で被害こうむった方にはワルいけれど、ここでは雪も喜ばれていたのです。

堀江さんには特に興味は持てずにきたけれど、いまはとても興味が湧いてきた。
それは、堀江さんに対してというよりも、「ホリエモン」などというネーミングで煽りまくったメディアや、持ち上げ続けたコメンティーターと称するヤツラがどのように取り繕っていくのか?ということ。

まぁ、
水に落ちた犬は叩け!!!
だということは分かるけどネ。

株を買ったこともなく、ヨコ揺れタテ揺れ地震順応アパート住まいの身には、ギャグの対象にしかならないようなニュースばかりの毎日だから、

こんな寒い夜は
06
鍋焼きウドンを
フーフーフー
いいながら喰って、、、、
その温もりが消えないうちに
寝ちゃいましょう

そろそろ湯たんぽのお湯も沸いたようです

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2006年1月17日 (火)

風邪退治記念

15日の日曜日、この日の東京は15度以上あったらしい。
その暖かさの中大変な混雑のボロ市を歩いたら汗ばんでしまい、そのままにしていたら風邪をひいてしまった。月曜日は朝から体がダルく体中の節々も痛む。風邪は早期退治が重要と思っているから、会社の帰りに医院によって薬を処方してもらい即帰宅→即眠る。そうしたら夜中に大量の汗をかいて目覚める。コレがワシの風邪治療法だから、「これで大体勝負あったな」とパンツとシャツを取替え安心して再び眠る。

そんなワケで、今朝は早く目覚めて爽快爽快。風邪も吹き飛んでいた。
そこで、早く起きたついでだからと風邪退治記念に「神田・うお幸」で朝食。

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焼魚、玉子焼き、切干大根、納豆、野沢菜漬、海苔、ワカメの味噌汁という、これぞ日本人のための模範的朝食。500円也。

sikiri

亡くなった本田竹広さんのことが気になったので押入れをヒックリがえして古い写真を探したら出てきたのが、若かりし日の本田さんの写真。70年代終わり頃で、手前から川端民生(B)、本田竹曠(Key.)、村上 寛(Ds)。

1_17_2

本田さんはデビュー時、本田竹彦という本名で活動していて、その後→竹曠→竹広と改名。私が知っているのは竹曠の時代までで、その後は全く忘れていました。30年ほどして入ってきた本田情報というのが死亡記事だったワケです。手前のベーシスト川端民生さんもどうやら亡くなっていたらしく、そんなことも知らずにいました。

私の中では、この写真当時の元気な本田さんの画像でフリーズしてたから、早すぎた死が余計にショックでした。

本田竹広さん、川端民生さんのご冥福を祈るばかりです。

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2006年1月15日 (日)

ボロ市の中心から電車男を呼び込む

午前中にプールで泳いでいるとき「やはり本田竹広さんについては何か書いてみたい」と思い立ち、泳ぎを早々に切り上げて帰宅。本田さんのCD写真を再スキャンしたりして、どうにか昨夜消失分の1/4くらいの量にして完成。安心したところで世田谷ボロ市へ。

このボロ市はムカシから続いている由緒あるお祭りで、12月15日・16日、1月15日・16日の年4回開催される。農具とか野菜の市が始まりだったといわれるが、現在では骨董、食料、衣類など出品物も多彩なフリーマーケット。表の商店街から裏通りまで町内の小路小路を埋め尽くすほどの賑わい。

昨日は雨で、今日は気温10度を越えるくらいの暖かさだから、多分人出が多いだろうなと思いつつも、とにかく行ってみる。とりあえず腹ごしらえと世田谷通りに面した、東京農大となりの「百麺(ぱいめん)」でラーメンを食す。とんこつ主体なんだろうがとんこつ臭くないのと、麺が細いのがウレシー。これで630円なり。ラーメン戦争のような開店閉店入れ替わり激しい世田谷通りの中ではなかなかの繁盛店。

1_15_1
満腹にしたところでボロ市の会場へ行ってみれば、やはりの大混雑。
そうか428年も続いてきたのか。
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人の波に押されて、両脇の出店を見る余裕もない。
どこからこんなに集まったんだッ!!!と思えるくらいの元旦の明治神宮並み。
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あまりの人手に酸欠しそうで、早々にズラかってきたのでした。
帰る途中にレンタル屋から借りてきたDVDがコレ。
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ブラインドタッチで叩くキーボードの音のようにテンポよいストーリ展開。
ヲタク題材となると、大体引きこもりなどの暗~い内容になってしまうけれど
この映画は
ハッピー
ハッピー
ハッピー
あまり説教口調で能書きタレられる映画はイヤミだけれど、
こういうホノボノとした映画は好きだなぁ。
と、いうことで
これがワシの今日一日の過ごし方でした。

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本田竹広さんが亡くなってしまった

昨日朝刊を開いたら飛び込んできたのが本田竹広さんの死亡記事。


半身まひ乗り越えライブ続けた 日本フュージョンの草分け
2006/01/14毎日新聞より

本田さんの記憶は70年代終わり頃のNATIV SONでフリーズして、その後は全く忘れていたけれど、一時期の私には特別なピアニストでした。特に72年録音の『This is HONDA』はフェイバリット レコードで何十回聴いたかわかりません。忘れていた、そんな本田さんの新しい情報が死亡記事だったのです。

ジョギング姿で颯爽とキーボード弾く本田さんがいずれ老いるなんて想像することもできなかったのに、それが60歳で死んじゃうなんて。

本田さんは最近どんな演奏をしていたのだろう。
供養の意味も含めてCD屋に行き3枚のアルバムを買ってきたわけです。それらを聴きながら本田さんの思い出を長めの文章にしてまとめ早速ブログにアップしようとしたら、
ゲッ!!!
エラーが発生して文章が消えてしまった。

一丁前のことを言わせてもらえば、やはりこの程度のモノでも書くときの勢いというものがあって、消失した文章を書いたときの集中力に再現させようとしてもムリなハナシ。

消えたのもまた、「こんなモノを書くな!!」というナニモノかの思し召しかと思わせて諦めるしかありません。

そこで、せめて、買ってきた3枚のCD画像をアップしましょう。


THIS IS HONDA
本田竹曠
1972年3月録音

ふるさと -on My Mind-
本田竹広
2004年8月録音

My Piano My Life 05 Piano Recital
紀尾井ホール ピアノリサイタル
本田竹広
2005年7月録音

ネットで周辺情報を拾い集めてみると、1995年、1997年の2回脳内出血で倒れ、左半身不随を克服しての復帰だったとのこと。ピアニストにとって腕が動かないということは死を宣告されたようなもの。そんな状態から這い上がり、“クラシックの殿堂”である紀尾井ホールリサイタルに漕ぎつけるまでは自己との壮絶な戦いがあったことを偲ばせます。

本田さんのステージは、天に祈りを捧げるかのようにピアノの前で手を合わせる儀式から始まったらしい。闘病生活の中から“音楽の神様”に帰依することを学んだのかも知れません。事実、最新アルバムを聴いてみると、そこには悟りの境地に到達したかのような本田さんの神々しい世界が感じられるのです。

最新アルバムの発売から1ヶ月で亡くなるなんて。
ここには、もはや人間の力ではどうしようもない、「ナニモノかの意図で動かされている」ことを意識するばかりです。

   1972年 『THIS IS HONDA』
   2004年 『ふるさと』
   2005年 『紀尾井リサイタル』

昨夜は買ってきた3枚のCDを繰り返し聴きながらブログを作って(それは空に消えてしまったけれど)、30年前のギラギラした本田さんの音と同調し、30年後の「全てのエゴを捨て去り、ただピアノしかない」、今の本田さんの音に癒される自分がいたのでした。

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2006年1月14日 (土)

大仏破壊

前便でバーミヤンの仏像のことを書いたら、今夜またNHK-TV「クローズアップ現代」という番組で、バーミヤンを取り上げていた。アフガニスタン情勢が落ち着きつつあった2002年から、日本の調査隊がバーミヤンに入り遺跡の調査を再開していたらしい。

その結果、爆破された大小2つの大仏像周辺からは新たな仏教遺跡も発掘され、7世紀にこの地を訪れた三蔵法師がバーミヤン訪問記に表した「長さ300メートルの仏陀黄金涅槃像」確認の期待も高まる。これらの遺跡が発掘されたなら、一大仏教聖地だったかつてのバーミヤンの姿が再現されるだろうという胸躍るレポートでした。


2006/01/12 NHK-TV クローズアップ現代
「バーミヤン発掘 幻の大仏は・・・」より。

こんな夢のあるレポートの反面、この一帯はいまだに地雷原であること、さらに、地元住民の住居や畑など生活の場所でもあり、遺跡調査のために立ち退きを迫られる住民の生活をどうするか?という問題に直面しているというのです。たしかに、日本だったら“重要文化財クラスの壁画”がある洞窟の中で暮らす家族もいて、建国途上のアフガニスタン政府にはこれらの人々の生活支援をする力はありません。ユネスコにも遺跡発掘の資金は供出はできても、地雷撤去や住民支援という余裕はないというのです。結局「文化財保護」という“先進国の尺度”と“住民の生活”とのバランスを模索するということになります。

私は、、、、、、。
破壊された巨大仏像の前面に埋もれているだろう仏教遺跡発掘に、スコップ持って参加している自分の姿を夢想してワクワクする気分でした。

2001年3月のバーミヤンの大仏破壊を取り上げた素晴らしい本を紹介いたしましょう。


大仏破壊
バーミヤン遺跡はなぜ破壊されたのか

高木徹

文藝春秋
\1,571
大仏破壊は、9・11同時多発テロを
予告するビンラディンのメッセージだった。

戦争広告代理店』で講談社ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞。そして、第36回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。

『ツインの仏像と、ツインのタワー、その両方を破壊したわけですね』
『“大仏破壊”は9・11”のプレリュード(前奏曲)だったわけです』

『ツインの仏像』
というのはバーミヤンにあった2体の仏像。
『ツインタワー』
というのはニューヨークにあった2棟のビルディング。

西アジアの辺境の地にあった古代の石窟像と、ニューヨークにあった現代技術の粋を集めたビルディングという対照的な2組の造形物が
なぜ破壊されなければならなかったのか?
どのような経過で破壊されたのか?

著者はNHKのディレクターで、略歴に紹介された担当番組を私は全部見ていたことに気がつきました。これまで放送された内容に、当時のアフガン政府関係者や、破壊回避に奔走した国連関係者などへの取材で得た情報を加えて検証したのがこの本。

小さな神学校の管理人でしかなかったオマルが、ボランティア的タリバンというグループを足がかりに、やがてアフガニスタン全土を掌握していき、さらに、タリバンに寄生する存在のビンラディンが、アルカイダとなって母体のタリバンを飲み込むことになります。

当初タリバンを支援したのは同一民族としての連帯感がある隣国パキスタンであり、「タリバンでも何でもアフガン国内を統治できるなら」という思惑のあったアメリカ。しかし、タリバンが過激なイスラム原理主義アルカイダの管理下に於かれ、コントロールがきかなくなると見捨てるという大国のエゴが炙り出されます。

「大仏破壊のメッセージ」が「9・11」にリンクするまで、国際社会はアフガンに対して何の関心も示してこなかったという著者の叫びは胸に残ります。そしてこの本はこんな文章で終わっています。

バーミアンの大仏は、今も破壊されたときのままである。その後、各国が資金を出して再建する計画があると報道されたが、進展していない。新しく仏像をつくったところで、それが千数百年の時を超えてきた大仏の代わりになるはずもなく、むしろ、吹き飛ばされた大仏像のあとにむなしく残る、天然の崖の巨大な穴の姿のまま保存したほうが「なぜ、大仏は破壊されたのか」「なぜそれを防げなかったのか」「破壊の本当の意味は何だったのか」を永久に問い続けるという意味で、よほど価値あることに人々が気がついたのだろう。



     
『あらゆるものに時がある
    壊すにも時があり 作るにも時がある』


昔むかし、あの2体の巨大仏像が作られたことにも“その時と意味”があっただろうし、今世紀、爆破されたのにも“その時と意味”があったのでしょう。そして2体の巨大仏像があった前面に広がる平野から、新たな仏教遺跡が発掘されていく過程が私たちに提示されていくことにも“その時と意味”があるのだと思います。

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2006年1月12日 (木)

こんなシーンを見ることになるなんて

この数年のアフガニスタンの悲惨なニュースに接するたび、「アフガニスタンには借りがる」という想いに駆られてしょうがないのです。

2006/01/09
この3連休で今年の正月休みも終わったようなもの。
テレビの番組は、いわゆる“おせち番組”から通常に戻りつつある中で正月気分の〆としてふさわしかったのが9日(月)NHKの番組。午前・午後と2部に分けて、合計6時間の「世界の仏像」特集は、いかにもNHKらしい機動力と生真面目さを見せつけてくれた壮大な内容でした。

仏像といっても、それぞれの気候風土国民性が生み出した仏様の中で、私が実際に見たことがあって、特別な思い入れを感じているのが番組最後に出たアフガニスタン・バーミヤンにあった大仏像。“あった”というのは、この大仏像は2001年3月にイスラム原理主義タリバンによって爆破され、今ではその姿を見ることができないから。

この9日のNHKの番組では、大仏破壊の決定的シーンが映し出されたのです。

(2006/01/09 NHKの番組から)

じつは、私は1974年6月バーミヤンの村で遊んでいたことがありました。

アフガニスタンは1979年のソ連による侵攻、ソ連撤退後の部族間の内戦、タリバンによる圧制、そして記憶に新しいアメリカ軍の空爆と国難の連続だけれど、74年当時は穏やかな国でした。もちろん通りすがりの旅行者の無責任な印象だったにしても、少なくとも夜間歩いても危害を加えられることもありませんでした。

アジアハイウエイのちょうど中間点にあたるのがカブールで、インドを経て西に向かう者は、やっとインドから抜け出せたと安堵し、ヨーロッパから東に向かう者は、これからの国境状況やインドの情報を得るという重要なポイントだったのです。分厚いステーキや新鮮な野菜を食べれたし、もっと生活費を切り詰めたいと思ったら、ナンにカバブをはさみトマトを丸ごとかじるだけでも充足感を味わうことができ、これで宿代込みで2ドル程度だったと思います。こんな風にして次の出発に備えたのです。

外を歩けば「ヤーヤーヤーいつカブールへ来た?」「彼とはカルカッタで会った」「マドリッドのユースホステルで部屋が一緒だった」「ヤツは先にストックホルムへ向かった」などと、旅先でスレ違ったことのある同類の噂話が始まり、「もっと安い部屋があるぜ!」といわれ寝袋担いで移動したりと、私たちのような貧乏旅行者にとって天国のような国でした。東西文明の十字路と呼ばれ多くの旅人が交差した歴史を持つ街は、私たちにも寛容でした。

こんなアフガニスタンのバーミヤンは、カブールから西へ200数十キロ、バスで約半日の緑豊かな村。ここの岩山をくりぬいてられたのが大(55m)小(38m)2つの大仏像だったのです。回教国アフガニスタンに大仏像があるということは、大仏像が作られた4世紀ころはこのオアシス一帯が仏教の一大聖地として栄えた地だったことを物語っています。

しかし11世紀初頭、偶像を否定する回教勢力に制圧されて、それ以来アフガニスタンは回教国になり、仏教の象徴である大仏像は、偶像を否定する回教の戒律から顔面は削り取られることになります。それでもバーミヤンの村人は代々、大きい仏像を“お父さん”、小さい仏像は“お母さん”として敬ってたといわれます。

この大仏像の周囲には、かつて仏教盛んだった当時に修行僧の宿坊だったという洞穴がいくつもあって、そんな“文化遺産”にも旅行者が勝手に入り込めるほどルーズな管理状況でした。たぶん地元住人には、“文化遺産”などという外国人が決め付けた価値観もなく、生まれたときからそこにあった風景の一つにすぎなかったのでしょう。

私もまた、ホテルの部屋に放置された汚れた本を持ち出して、この洞穴の中で読んだりの穏やかな時を過ごしていたのです。本を読み、タバコを喫い、そのうちウトウトしてきて昼寝をして、起きたらまたタバコを喫う。目が覚めたらどこから現れたのかオマワリが立っていてドキッとしたなどということもありました。

眼下には緑のバーミヤン平野と畑を耕す女たちの姿。それらを取り囲むようにそびえる茶色のヒンズークシュ山脈。洞窟の中は一切の物音が届かず、真空状態とはあのようなことをいうのかもしれません。

あれから30年以上を経て、アフガニスタンでこんな経験をしたことのある人間もそう多くはないだろうと思い出を数えていると、あの大仏様爆破のシーン。あぁ、もはやあの大仏様を再び見ることはきないのかとやり切れない気分になって、あのとき、洞穴の中に残っていた壁画などをしっかり観察しておくべきだったと、今になって悔やんでいるアホな私なのです。

アフガニスタンの写真はもっと撮ったはずだけれど、ローマのユースホステルでカメラごと盗まれてしまい、手元に残っている写真はこれだけ。



1974年6月のバーミヤン

アフガニスタンの写真がこの大仏像1枚というのにも
不思議な力を感じてしまいます。

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2006年1月 4日 (水)

はじめまして

えあじんです。

テスト
テスト
テスト

天気晴朗なれど波高し

オマエ100まで、ワシャ99まで ともに白髪の生えるまで

テスト
テスト
テスト

ただいまブログのテスト中です。

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